「ハイジン教」と排外・拝外主義

「内地雑居論争」とハイジン教の関連性

近作「ハイジン教の改宗者たち(非公開)」とその前作「いつか名もない魚(うを)になる」はいずれも縦書き文庫のシリーズ「無宗教派の人びと」に載せている。これら2020年代に入ってから書かれた作品のモチーフともいうべき日本人の対外意識ないし排外意識について考究したのが「内地雑居論試論」であり、1994年から95年初めにかけて執筆した。以下、五つの要点をまとめた。                          

(1)内地雑居反対論における自尊と「自卑の間にある矛盾

この矛盾こそ1890年代日本の対外意識の態様そのものを表現しているのであり、「自尊」と「自卑」の葛藤の中に当時の国民意識の形成が行われたものと考える。この両面性は、内地雑居反対論者の間だけではなく、賛成論者の中にもあったとみられる。それは、第一章で触れた(p.17)外国人に対する「拝・排外」意識に対応するものであり、いずれも、その基盤にあるものは外国を異質視することに基づいた排斥意識であると考える。いいかえれば、「拝外」と「排外」意識はそれぞれ全く無関係なものとしてあったのではなく、外国に対する排斥意識という基盤の上に、「排外」意識とともに、その対極である「拝外」意識があったと考える。このように考えるならば、支那人問題における排外意識と欧米人に対する崇拝意識ないし、その逆転したものとしての排外意識は、ともに外国排斥意識の表れとして理解することができる。これらふたつの、たがいに相反する意識の並存と両者間の対立こそが、19世紀後半期における日本の対外意識の有する特質であったと考えるものである。

(2)支那人と朝鮮人に対する差別意識の形成 

筆者は近代日本人の対外意識を大きく制約している枠組のひとつが、支那人・朝鮮人に対する差別意識であると考えている。

 支那人という「外国人」に対する近代日本における対外意識を考察する上で、第一章で述べた取り込み概念に基づいて、「アジア取り込み」という枠組を想定することとしたい。従来の「脱亜入欧」的枠組は、いわば西欧を中心とした見方に基づくものであり、欧亜の関係は上下あるいは優劣関係でとらえられている。これに対して、内地雑居論争を通じて見えてくる明治期日本における対外意識の基本は、「脱亜」即ちアジアから脱するというよりはむしろ、未開地域とされたアジアを取り込むことによる、日本の国際関係秩序への編入にあったと考えられる。このような観点から、本節では主として支那人に対する蔑視意識と台湾の取り込み過程に関連した内地雑居論争を取り上げることにする。

(3)国民意識のなかに形成された民族的偏見 

明治期日本人の対外意識における民族的偏見は、内地雑居論争を通じて国民意識の中に確実に浸透していったものと考える。このような国民意識の枠組をさして、本節の初めに「アジア取り込み」という用語を用いたのであるが、それは第一章で用いた「内地化」と同質のものである。欧米に対する拝・排外意識とは異なった態様ではあるが、近代化過程において日本に立ち遅れた、支那・朝鮮に代表されるアジア地域の国々に対しては、排外意識の変形である差別ないし蔑視意識を介することによって、日本の階層的な対外意識の枠組の中に取り込んでいったのである。欧米諸国に対する排外意識が、崇拝あるいはその反面としての劣等意識だったとするならば、アジア地域諸国に対する排外意識は、相手側を蔑視し、自分より下位に置かれた劣等者として見下すことを通じた、開化先進国として自認していた日本による、後進国とみなされた地域の「取り込み」という形をとったと考えるものである。

(4)アジア地域に対する<開国>

本論の主旨は、近代日本が鎖国から開国に転じたのは、決して西欧世界に対してだけではないということであり、同時に東アジア地域を含む全世界に対して開国したという歴史的事実を、内地雑居論争を通じて確認することにあった。考えてみれば当然のことではあるが、開国というともっぱら西欧世界との関係について考える傾向が日本人の間にあり、非西欧世界は視野の外に置かれることが多かったといわざるを得ない。この傾向は、現在においても基本的には変わっていないと考える。

 ところが、内地雑居という観点から見ると、第二章の五で述べたように、欧米人と同じく中国人・朝鮮人との雑居を考えざるを得ない。それは、決して彼等が欧米人と同等に扱われたことを意味しないが、差別意識の有無はともかく、特定の集団と雑居して他の集団と雑居しないということは法理論上、また現実的にも難しいからである。この意味において、雑居という概念は本来的に上下関係ではなく、ヨコの関係に基づくものと考えられる。ヨコの関係が持つ無差別性ないし平等性があったからこそ、日本人の対外意識において上位にあった欧米諸国との雑居とともに、下位に置かれていた支那人との雑居問題が論議の対象となったのである。

 あるいはまた、雑居という問題が生活文化に直接関係するだけに、一種の普遍性を持っていたとも考えられる。この意味において、内地雑居論争は19世紀後半期を通じて国民的な議論となるための要因を持っていたのである。一般化が許されるならば、国際社会はいずれの地域、いつの時代にあっても「雑居化」の過程をたどってきたと考えられるのであり、今後とも「雑居化」していくことは必然だと考える。近代日本の場合、鎖国体制が崩れて開国の方針に転じた時点から、「雑居化」の歩みが始まったと考えられる。

(5)日本における排外主義の伝統 

内地雑居論争と「国際化」論議のいずれにも共通し、それらを支えている対外意識の態様はどのようなものであろうか。それを筆者は、日本的排外主義とでもいうべき、幕末の攘夷論につらなる排外意識だと考える。外国に対する排斥意識があればこそ内地雑居論があったのであり、現在においてもなおかつ基本的な枠組としての排外意識が継続しているからこそ、内地雑居論争の当時から一世紀余を経た後にまた開国・鎖国論次元の国際化論議が起こり得るのである。いいかえれば、攘夷論に先鋭的な形で表れた排外思想が、開国論ないし内地雑居肯定論にとって替わられたのではなく、日本における排外主義の伝統は国民意識の下層にあって、今日に受け継がれているのではないか。このような形の排外主義はどこの民族あるいは国家にも潜在的、顕在的にあると考えるが、ここでは日本における排外主義が決して開国論あるいは内地雑居の実施とともに消滅したのではないという考えを述べておくこととしたい。


『日本人の対外意識―「内地雑居論」にみる原型の形成』
Japanese vis-a-vis Outside World: A Historical Origin as Shown in the Debate on “Naichi-zakkyo” in Early Meiji Period
 本研究は、19世紀後半(幕末から明治32年[1899年])における日本人の対外意識の態様に関し、内地雑居論関連資料に基づいて考察するものである。内地雑居論争とは、当時の日本国内即ち内地における日本人と外国人との雑居に関する論争であり、内外人雑居に関する賛否両論の展開の中に、当時の日本人が抱いていた外国人に対する「対外意識」の態様が表現されていると考える。
 
<h3>内地雑居論からみた「開国」</h3>
 
 基本的な問題意識としては、近代日本にとっての「開国」を、幕府ないし維新政府による外交政策の転換によってもたらされた一時的な事態とみなすのではなく、「開国」という歴史的過程が国民意識の上において一応の完結を見たのが、条約改正に伴う内地雑居の実施即ち1899年にあったという立場をとる。1854年の「開国」は単に開港であり、開港場周辺の居留地という部分的な地域を外国に開放したに過ぎず、その45年後に「内地」全体が外国人に対して開放されたのだと考える。すなわち、開港場ならびに外国人居留地の設置(=非内地雑居)にはじまり、改正条約実施(=内地雑居)に至るまでの約半世紀に及ぶ、外国人と日本人との「非雑居」から「雑居」状態に至る連続的進行ないし地域的な拡大過程として「開国」を理解しようとするのが、本研究における基本的な考え方である。
 1850年代における部分的な「開国」が、制度上は94年の条約改正により、また実際上は99年の改正条約の施行によって、全国的な「開国」として完結したと考えれば、近代日本の「開国」は、部分から全体に至る「雑居化」即ち内地雑居的状況の進行過程としてとらえることが可能である。そして、「開国」の過程で生じる内外国人の相互接触ならびに人種間ないし文化間の摩擦の中から、近代日本人の外国人像が生まれ、対外意識が形成されていったものと考える。
 いいかえれば、「開国」という、ほぼ半世紀におよぶ「一連の過程」が近代日本人の意識の上にどのような影響を及ぼしたかについて、対外意識という側面から研究するのである。それを、内地雑居論争という国民的論争の展開の中に表れた対外意識の態様の中にとらえ、近代日本におけるナショナル・アイデンティティ・クライシスの国民意識上における表出として理解するのである。従来、条約改正論議の一隅を占めるだけであった内地雑居論争の展開の中に、近代日本における対外意識の態様の一端を浮彫りにすることに、本研究の意義があると考えている。
 
 上述のように、本研究は内地雑居論争を直接の研究対象とするものであるから、考察の基礎となる文献資料の持つ意味が大きい。稲生典太郎編集の『内地雑居論資料集成』に収められた資料を中心とする関連文献を基礎資料として、これら資料に記録された近代日本人の対外意識の態様を検証することを試みる。
 
<h4>第一章の要旨</h4>
 
 ほぼ1870年代に相当する時期を内地雑居論前史として位置づけ、同時期における対外意識枠組の態様について論じている。
 当時、日本の主権が及ぶ領域として一般に理解されていた地域として「内地」という語を用いているが、「内地」領域は19世紀後半期を通じて、常に境界が確定していた訳ではない。幕末までは、ほぼ本州、四国、九州及び北海道の一部に限定されていたと考えられるが、明治時代に入って、1870年代を通じて琉球が「内地」に取り込まれ、その後1895年に台湾、20世紀初頭には朝鮮が版図に取り込まれていく。このような取り込み過程を説明するのに「内地化」という用語を用いているが、「内地化」即ち「外地」を「内地」へ取り込む過程(領土の拡大、植民地化)を通じて、内地人である日本人の対外意識も変容していったものと考える。対外意識とは「内地」からみた「外地」ならびに「外国」に対する意識のことを意味すると考えられるからである。
 1870年代に、土人という用語に象徴されるような、内外地を問わない未開・野蛮地域ないし人々に対する蔑視感情が形成されていく。この時期における、土人ならびに外地人に対する蔑視意識は、民族主義的な対外意識に先行するものであり、それはやがて近代国家意識のなかに収束され、対外的な民族意識の形をととのえていく。同時期を通じて、空間的な領域としての「内地」概念が拡大され、内地雑居(=混住)の対象として支那・朝鮮人を除く「外国人」概念が形成されたものと考える。「内地」及び「外国人」という二つの概念形成が、1880年代及び90年代における内地雑居論議展開のための土台を提供していると考える。
 
<h4>第二章の要旨</h4>
 
 1880年代及び90年代における内地雑居論争の展開を通じてみられる、近代日本における対外意識の態様について論じている。
 内地雑居論にみられる排外意識の態様に関して、内地旅行論争に始まり、「権利論」対「実利論」の論争、現行条約励行論議ならびに大日本協会の設立に至るまで内地雑居に関する賛否両論に関する考察を通じて、これらの論争における対外意識の表れ方をとらえようとしている。また、内地雑居論が本来的に現実の社会問題をその議論対象としていることに鑑み、居留地制度下における内地雑居的状況の進展に応じて表れた、より実態に即した議論について述べている。
 最後に、支那人問題という、内地雑居論争における最大の争点のひとつについて言及し、それに関連して新条約実施に伴う支那人との雑居問題について触れている。内地雑居論争の実像に迫るためには、欧米人との雑居問題だけではなく、その背後にあった支那人ないし朝鮮人との雑居問題、あるいは彼等の条約上における法的地位について検証しておくことが是非とも必要だからである。
 
<h4>第三章の要旨</h4>
 
 本章において「雑居」概念に関する先行概念について述べている。この基本概念に関する考察を抜きにして、内地雑居論について論ずることはできないと考えるからであるが、ここではごく簡単に触れるにとどめている。ちなみに、筆者は「雑居」が日本思想の根幹にかかわる概念であり、内地雑居論争も思想的にはそのひとつの表れだと考えている。
 おわりに、現代日本における対外意識の表れのひとつとみなされる「国際化」問題について触れ、そこにおける基本的な意識枠組が、19世紀後半期から歴史的に連続していると考えた上で、「国際化」論議にみられる対外意識の態様が、内地雑居論争における対外意識の枠組によって制約されていることを指摘している。
<h2>序 論</h2>
 
 本研究は、19世紀後半―幕末から明治30年代初期―における、日本人の対外意識の態様について考察しようとするものである。はじめに、19世紀後半期における日本人の対外意識ないし「開国」に関し、本研究を通じて「日本人の対外意識」を把握する方法、研究の目的について述べ、その概要を示すことにする。(以下、引用文中[  ]内の語句は筆者による補足である。)
 
<b>一 研究の目的</b>
 
 基本的な問題意識としては、近代日本にとっての「開国」を、1854年の日米和親条約締結あるいは1868年の明治維新のような、幕府ないし維新政府による外交政策の転換によってもたらされた一時的な事態とみなすのではなく、「開国」が国民意識上において一応の完成を見たのが、条約改正に伴った内地雑居の実施即ち1899年にあったという立場をとる。したがって、1854年の「開国」は単に開港であり、開港場周辺の居留地という部分的な地域を外国に開放したに過ぎなかったとみなし、それから45年後に「内地」全体が外国人に対して開放されたのだと考える。いいかえれば、「開国」という近代日本における歴史的事態を、ある時期あるいは局面に特定するのではなく、19世紀後半期における「一連の過程」としてとらえようとするのである。1959年に著わされた論文「開国」の冒頭において丸山眞男は、開国について次のように述べている(1)。
 
  象徴的にいえばそれ[開国]は「閉じた社会」から「開いた社会」への相対的な推移を意味
  するし、歴史的現実としてはいうまでもなく十九世紀中葉以後において、極東地域
  の諸民族、とくに日本と中国と李氏朝鮮とが「国際社会」に多少とも強制的に編入され
  る一連の過程にほかならない。
 
 拙論では、日本人の対外意識が、上記引用中にある「一連の過程」としての「開国」を通じて形成されたと仮定し、それを内地雑居論争という国民的論争の展開の中にとらえようとする。内地雑居論争を、近代日本におけるナショナル・アイデンティティ・クライシスの国民レベルにおける表出として理解し、そこに表れた危機意識の表れを対外意識の形成過程の一部としてとらえる試みであるといってもよい。従来、条約改正論議の一隅を占めるだけであった内地雑居論争の展開の中に、近代日本における対外意識の態様の一端を浮彫りにすることに、本研究の意義があるものと考えている。
 先行研究としては、佐藤誠三郎の「幕末・明治初期における対外意識の諸類型」(2)あるいは芝原拓自の「東アジアにおける近代」(3)他の論文を参考にした。これらを含む参考文献は巻末に掲げておいた。最近の著作の中では、尹健次の『民族幻想の蹉跌』(4)から多くの示唆を受けたことを付記し、同氏の「内地雑居問題」に関する見解を引用しておく。拙論においても、内地雑居論争を近代日本人の対外意識「形成の根幹に関わる問題」として理解している。
 
   1880年代後半といえば、いわゆる「内地雑居問題」をめぐって国内で論争が繰り広  げられ、「日本人」と「外国人(他人種・他民族)」の混住(″雑居″)が制限つき  とはいえ、現実の問題として差し迫っていた時期である……日本側からするとき、そ  れは単に、不平等条約の改正を契機とする外国人の在留管理制度の整備だけでなく、  よりひろくは、1899年(明治32)の単独法としての国籍法制定、および同年のアイヌ  同化を促す意図をもった「北海道旧土人保護法」の制定などにまでつながる明治日本  の「国民国家」「民族国家」形成の根幹に関わる問題であった。
 
<b>二 研究のための基本資料</b>
 
 上述のように、本研究は内地雑居論争そのものを研究対象とするものであるから、考察の基礎となる文献資料の持つ意味が大きい。基本文献としては、稲生典太郎の「条約改正と内地雑居に関する書誌」(5)に掲げられた成書資料だけでも200部を越えるが、本研究は同氏編集の『内地雑居論資料集成』全6巻(6)に収められた資料約30点他に基づいて、内地雑居論争の中に表現された近代日本人の対外意識の態様を検証しようとするものである。同資料集成は明治百年史叢書の第404巻から409巻として出版されたものであり、収録資料の全ては原資料を複写したものであるから、準一次資料として取り扱うことができると考える。したがって、本論中で個々の資料から引用する場合には、原典のページ数を記すこととした。
 第一章において、内地雑居論前史の時期を通観するのに際して、主に『新聞集成明治編年史』に依った。それが当時の新聞雑誌資料を基に編集された二次資料であることは十分留意しなければならないが、1870年代における対外意識の輪郭を把握するためには、相応の資料的価値があるものと考える。
 
<b>三 研究対象の時期区分</b>
 
 本研究の対象とする時代をいつからいつまでとし、それをどう区分するかは、明治維新をどうとらえるかに深くかかわる問題である。明治維新の時期区分に関しては、歴史学界の中にもさまざまな見解があるが、必ずしも本研究の問題意識に合致したものではない。幕末から明治期における日本をめぐる国際的条件(7)にもとづいた時代区分に準ずることとするが、本論は明治維新そのものを対象とするものではなく、あくまでも19世紀後半における日本人の対外意識に関する、内地雑居論の関連資料に基づいた考察である。19世紀後半期を対象とするのは、この期間を通じて、近代における日本と諸外国との国際関係秩序が形成され、日本人の対外意識もほぼ同時期に形成されたと考えるからである。
 国際的条件という場合、日本の開国が西欧列国の東アジア進出によってもたらされ、近代化がもっぱら西欧化であったと考えれば、主として西欧列国との政治・経済・外交関係を考慮すればよい。しかしながら、本論では、近代日本における対外意識の態様を単に西欧諸国との関係においてとらえる立場をとらずに、非西欧諸国をふくむ外国と日本との国際関係全体の枠組のなかで考察する。そのためには、日本と同じく東アジア地域に属する清国・朝鮮を視野に入れるとともに、蝦夷・琉球を「外地」としてとらえ直すことによって、はじめて近代日本における対外意識の特徴が明らかになると考え(2)、本論中では特
に支那人・朝鮮人に対する対外意識を中心に論ずることとした。
 以上のような考え方に基づいて、19世紀後半に相当するこの時期を対外関係という観点から通観すれば、1850年代における徳川幕府の西欧列国に対する開国政策の実施にはじまり、1860年代における各国との条約締結とそれに反対した攘夷運動、1870年代以後の明治政府による条約改正の外交交渉とそれに対する反対運動、1890年代の議会における条約改正をめぐる論争、1890年代後半の改正条約実施準備までの時期となるが、本論はこれらの「一連の過程」を「開国」として理解し、その過程で表れた対外意識の態様を内地雑居論争の展開の中にとらえようとする試みである。
 このような観点から、19世紀後半期における日本の対外関係について、時期区分ごとに概括したものを次に掲げる。この時期区分はほぼ、稲生典太郎の内地雑居論資料の時代区分と重なるが(8)、仮に西暦の約10年代ごとに区分したものである。関連年表を注(11)に
記したが、必ずしも当時の日本の対外関係のすべてを網羅しているわけではなく、本論を進めるための時期区分上の参考として提示するものである。
 
<b>〈時期区分〉</b>
 <b>第一期</b> 西欧列国の開国要求と日本の開国(1852-1858) 
黒船来航に象徴される、西欧列国による開国要求に応じて徳川幕府が鎖国体制を打  ち破り、安政五ヶ国条約を締結するまでの時期である。琉球国は、幕府とは別に米仏  蘭と独自に和親条約を締結している。
 <b>第二期</b> 各国との条約締結と攘夷運動(1859-1869)
条約締結国の拡大と、開国に反対する攘夷運動の高まりが、この時期の特徴である。  国内的には、安政の大獄から東北(戊辰)戦争終結までの、いわば内乱期である。幕  府の側には、攘夷運動の激化に応じて、鎖国体制へ回帰しようとする動きがあった。  開国は決して直線的な過程ではなかったのである。
 <b>第三期</b> 国内体制の確立と対清国・朝鮮外交の展開(1870-1877)
廃藩置県(71年)によって、国内体制の基盤が整う時期とほぼ同時に、清国・朝鮮  との外交交渉が開始されるが、対朝鮮外交に関しては、征韓論論争にみられるように、  当初から強圧的である。国内的には、西南戦争終結までの時期とする。
 <b>第四期</b> 条約改正交渉と反対運動(1878-1889)
寺島・井上・大隈外相時代の条約改正交渉と、秘密外交内容リークをきっかけとす  る反対運動の高揚がこの時期の特徴であり、大隈外相は反対運動家による襲撃を受け  た。井上外相時代に、鹿鳴館に象徴される欧化政策が実施された。外交面では、この  時期を通じて、朝鮮をめぐる日本と清国の対立がしだいに深まっていく。
 <b>第五期</b> 対英交渉から改正条約実施まで(1890-1899)
青木・陸奥外相時代における対英改正条約交渉と、日英条約改訂による治外法権の  廃止、ならびに他の各国との条約改訂を経て、改正条約の一斉実施(99年)に至る時  期である。第四・第五帝国議会における条約改正論議、日清戦争と台湾領有、清国と  の不平等条約締結、朝鮮に対する内政干渉の拡大などが注目される。
 
 上記時期区分中の第一期と第二期については、本研究に通史的観点を与えるための座標として掲げるだけにとどめ、内地雑居論に関する考察は、主として第三期から第五期までに限定することとした。本論の構成上は、ほぼ第三期に相当する時期を内地雑居論前史として位置づけた上で、国民的な対外意識の萌芽ないし枠組形成期としてとらえ、第一章で考察する。また、第二章を通じて、第四期と第五期を内地雑居論の展開期として位置づけ、その論争のなかに対外意識の態様を探ろうとしている。
 
<b>四 研究の方法</b>
 
 近代日本における対外意識について考察する以上、外部世界に対する意識を主たる考察対象とするが、実際の研究方法としては、二に概説した資料を考察対象とし、これら資料の中に表現された、当時の日本人がもっていたと想定される対外意識の態様を把握する手法をとることとする。このような研究方法が有効であるためには、当時の日本人がもっていた対外意識に関する枠組が、ある程度まで共通していたと前提しなければならない。いいかえれば、19世紀後半期を通じて、日本国民の間において、少なくとも対外意識を共有する程度までには同質化が進んでいたと仮定するわけである。このような観点からすると、最も好都合なのは、対外意識に関わる問題について国民的な論争があり、その関連資料が豊富に残されていることであるが、幸いなことに、明治時代前半期に条約改正論議と併行して展開された内地雑居論とよばれる国民的論争がある。
 したがって、本論では、特に先に掲げた時期区分における第4期と第5期の時期―1878年から1899年まで―に盛んに論争された内地雑居論を中心にとり上げ、論争に表れた日本人の外国ないし外国人に対する意識について考察する。というのも、内地雑居とは、当時の日本国内即ち内地における日本人と外国人との雑居の意味であり、内外人雑居に関する賛否両論の展開の中に、当時の激変する国際関係秩序の真っ只中に置かれた日本における対外意識の態様が表れていると考えるからである。
 
<b>五 内地雑居的状況の拡大過程としての開国</b>
 
 1858年の安政条約によって開港場周辺の居留地における外国人の居住が認められ、居留地内の土地に関する永代借地権とその上の住居・倉庫などの建物の建築が認められた。居留地周辺には遊歩規程が定められたが、外交官と雇外国人を除く一般外国人には居留地以外における居住は認められなかった。内国人である日本人の側から見れば、居留地と遊歩規程地域以外の大半の内地は、徳川時代以来の閉鎖状態が継続していたのである。その意味において、54年の開国は部分的な「開国」に過ぎないと考えることができる。
 上述のように、開港場ならびに外国人居留地の設置(=非内地雑居)にはじまり、改正条約実施(=内地雑居)に至るまでの約半世紀に及ぶ、外国人と日本人との「非雑居」から「雑居」状態に至る連続的進行ないし地域的な拡大過程として「開国」を理解しようとするのが本研究の基本的な態度である。以下に、居留地以外の地域への「雑居化」の拡大過程の概要を記す。ここで用いる「雑居化」とは、社会的実態としての内地雑居的状況の進行を意味する。
 
<b>(1) 居留地外における雑居形態の拡大</b>
  1854年の日露和親条約の中で、樺太における日露間の雑居を規定しているが、日本内地での居留地以外における雑居の導入は、68年における神戸雑居地の設置に始まる。この間の事情を高橋自恃の「神戸雑居地の光景」から引用するが(9)、条約上に定められていない雑居地を認めたのは維新政府首脳自身だったのである。
 
   [英仏蘭]三公使請ふで曰く、兵庫開港後居留地未だ成就せざるに依り以後条約済外  人をして兵庫神戸の間何の地を論ぜず雑居を許さば如何と、我諸公曰く兵庫神戸中雑  居は許し難し、然れども生田川と宇治川とを境として其間に居留するを許すべしと、  三公使諾して而して退けり、時に当日列席したる外国事務局長官伊藤俊介(今の総理  伯)は神戸に帰りて後雑居地境界、道路、町入費負担等の事を規定して各国領事に達  せり、是を我国雑居の起原と為す [高橋、1893]
 
<b>(2) 遊歩規程及び内地旅行に関する規制緩和</b>
 1869年には、病気療養を目的とする場合に限るとはいえ、遊歩規程地域外であっても近隣の温泉地に旅行することが許可された。74年から75年にかけて、外国人内地旅行允準条例起草、官公私雇外国人通行免状新設、外国人内地旅行免状への改正、遊歩規程内宿泊許可(ただし旅篭のみ)などの措置がとられ、78年には「懇親の日本人方へ[の]投宿」も認められるようになった。これらの措置によって、病気保養と学術研究もしくはその他必要やむを得ない場合に限られてはいたが、事実上は遊歩規程範囲外の内地旅行が外国人に可能となったのである。明治政府の政策は、これらの措置の運用を含め、外国人に対してきわめて寛大だったといえるが、このことが1890年代後半において、内地雑居反対論の一形態である現行条約励行論の台頭を引き起こすことになるのである。
 
<b>(3) 居留地外における「土地所有」の拡大</b>
 今井庄次は、特に明治20年代[1887-96]に顕著になった内地旅行の拡大と、日本人名義による外国人の居留地外における「土地所有」の拡大傾向をとらえて「内地雑居的傾向」と呼んでいるが(10)、このような傾向は、1890年頃までにはかなり進行していた。本論中では特に触れていないが、横浜・神戸周辺や軽井沢等の保養地における外国人の「土地所有」に関する記述は内地雑居論に関する新聞記事及び単行本に頻出している。
 
<b>(4) 内地雑居的状況の拡大
</b> 条約改正論議と併行して行われた内地雑居論議は、単なる法制度上の議論だったのではなく、実際に進行しつつあった内地雑居的状況に対応するための、現実社会に根ざした議論であった。条約改正のための、いわば交換条件のひとつとしてとらえられた内地雑居は、実際には内地雑居的状況の進行に応ずるための、法制度上における現状追認という側面を持っていたのである。
 
 1850年代における部分的な「開国」が、制度上は94年における各国との条約改正により、また実際上は99年の改正条約の施行によって、全国的な「開国」として完結したと考えれば、近代日本の開国は、このような部分から全体に至る「雑居化」の進行過程としてとらえることが可能である。とはいえ、99年における内地開放ないし内地雑居の実施というのも、制度上において北海道、沖縄、台湾を含む「内地」が外国人に対して開放されたということにとどまるのであって、その後急速に内外人雑居が拡大したのではない。
 開国を、上述のような意味における「雑居化」の進行過程として考え、その過程で生じる内外国人の相互接触ならびに人種ないし生活文化の違いに基づく摩擦の中から、近代日本人の外国人像が生まれ、対外意識が形成されていったとするのが拙論の仮説である。
 

 (1) 丸山眞男「開国」『忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相―』 筑摩書房 1992年 p.159
 (2) 佐藤誠三郎 『「死の跳躍」を超えて―西洋の衝撃と日本―』第1章 都市出版 1992年
 (3) 歴史学研究会・日本史研究会編集 『講座日本歴史』第7巻「近代1」 東京大学出版会  1985年
 (4) 尹 健次 『民族幻想の蹉跌』 岩波書店 1994年 p.41
 (5) 稲生典太郎 『条約改正論の歴史的展開』 小峯書店 1976年 p.579-640
 (6) 稲生典太郎編 『内地雑居資料集成』 全6巻 原書房 1992年
 (7) 遠山茂樹 『明治維新と現代』 岩波書店 岩波新書 1968年 p.11-13
 (8) 稲生典太郎「内地雑居論の消長とその資料」 前掲書 第1巻 p.3-22
 (9) 高橋自恃 『朝日叢書内地雑居論』 大阪朝日新聞社 1893年 p.25
(10) 今井庄次 「明治二十年代における内地雑居的傾向について」『内地雑居論資料集成』 第1巻 原書房 1992年 p.23-44
(11) 関連年表(p.7-8 参照)
 
<b>〈第一期〉</b>
1852-54年 ロシア軍艦下田に来航、米軍艦浦賀・琉球来航
1854年 日米和親条約(神奈川条約)締結―下田・函館開港、琉米修好条約締結、日露和親条約調印―下田・函館・長崎開港、樺太日露の雑居地に指定、英軍艦長崎に来航、日英和親条約調印―長崎・函館開港、オランダに下田・函館開港
1855年 仏艦隊下田来航、英艦隊函館来航、琉仏和親条約締結、日蘭和親条約調印
1857年 日米条約(下田協約)締結、日蘭追加条約調印(初の通商条約)
1858年 安政五ヶ国(米蘭露英仏)条約調印、外国奉行を設置
 
<b>〈第二期〉</b>
1859年 露仏英蘭米に神奈川・長崎・函館開港、下田閉港、琉蘭和親条約、ロシア人士官等殺害事件、安政の大獄
1860年 咸臨丸米国へ、遣米特使米国へ、オランダ人商船長等殺害事件、ポルトガル・プロシアと修好通商条約調印、米人通訳官殺害事件、桜田門外の変
1861年 対馬事件(ロシア軍による対馬上陸)、第一次東禅寺事件(英公使館襲撃)
1862年 坂下門外の変、第二次東禅寺事件(英水兵殺害)、生麦事件(英人殺害)
1863年 下関事件(長州藩米仏蘭艦砲撃)、米仏艦報復攻撃、薩英戦争、貿易商人の殺害事件多発、英仏両国守備兵の横浜駐屯許可、幕府横浜鎖港を提案
1864年 英仏米蘭艦隊下関砲撃、英米仏蘭と横浜居留地覚書調印、京阪地方に外国貿易非難の張紙
1865年 英仏米蘭艦隊兵庫来航、露軍艦北蝦夷地上陸駐屯、条約勅許
1866年 英仏米蘭と改税条約調印、ベルギー・イタリア・デンマークと修好通商条約調印
1867年 日露樺太仮規則調印―樺太雑居、兵庫開港、大阪開市
1868年 東北戦争(-69年)、神戸事件(備前藩士外国人に発砲)、堺事件(土佐藩士フランス人殺害)、英公使襲撃事件、新政府幕府締結条約の遵守を各国に通告、スウェーデン・ノルウェー・スペインと修好通商・航海条約調印、東京開市、新潟・大阪開港、ハワイ契約移民渡航
1869年 ドイツ北部連邦と修好通商航海条約調印(プロシアとの条約改訂)、ロシア軍樺太函泊占領、オーストリア・ハンガリーと修好通商条約調印
 
<b>〈第三期〉</b>
1870年 清国との通商交渉、朝鮮との国交開始交渉
1871年 廃藩置県、ハワイと修好通商条約調印、日清修好条約・通商協定締結、岩倉遣欧使節団出発
1872年 マリア・ルース号(ペルー船)事件、新政府幕府から対朝鮮外交を接収
1873年 遣欧使節団帰国、朝鮮遣使問題(征韓論)、ペルーと和親貿易航海仮条約調印
1874年 台湾出兵問題
1875年 英仏横浜駐屯軍引揚げ、ロシアと千島・樺太交換条約調印、江華島事件
1876年 日朝修好条規調印
1877年 朝鮮と釜山港居留地借入約書調印、西南戦争
 
<b>〈第四期〉</b>
1878年 寺島外務卿条約改正交渉、日米条約・協約修正調印(関税自主権あり、施行されず)
1879年 琉球藩廃し沖縄県設置―清国抗議、井上外務卿条約改正交渉開始
1880年 清国と琉球分割に関する条約案を議定、清国調印せず
1882年 条約改正第一回各国連合予議会開催、壬午事変(朝鮮)、朝鮮と済物浦条約調印
1883年 英国より条約改正に関する覚書(内地開放を条件に関税自主権を認める)
1884年 甲申事変(日清交戦)
1885年 朝鮮と漢城条約調印、清国と天津条約調印、大阪事件(朝鮮内政改革クーデターの計画)
1886年 ハワイと渡航条約調印、第一回条約改正会議、清国水兵日本警察と衝突、ノルマントン号(英船)沈没事件
1887年 条約改正会議―英独提出の裁判管轄条約案を修正議定(批准後二年以内の内地開放など)、条約改正会議無期延期、各府県代表建白書の提出、井上外相退任、シャムと修好通商に関する宣言調印
1888年 大隈外相新条約案、メキシコと修好通商条約調印(初の対等条約)
1889年 大日本帝国憲法公布、米独露と改正通商航海条約調印(発効せず)、条約改正案反対運動の激化、大同倶楽部などの非条約改正委員会、条約改正反対派全国連合大演説会、大隈外相襲撃事件、条約改正交渉延期決定
 
<b>〈第五期〉</b>
1891年 対英条約改正案、大津事件(巡査ロシア皇太子を襲撃)、防穀令事件(咸鏡道防穀令施行に対する損害賠償請求)
1892年 条約改正案調査委員会、千島艦事件、第四議会召集
1893年 閣議条約改正案交渉方針を決定(内地雑居、領事裁判権の廃棄など)、大日本協会結成(内地雑居反対、現行条約励行を提唱)、第五議会解散
1894年 移民保護規則公布、日英通商航海条約調印(領事裁判権の廃止)、日清戦争(-95年)
1895年 日清講和条約調印(台湾の割譲など)、台湾島民反乱、台北占領、閔妃殺害事件、ブラジルと修好通商航海条約調印
1896年 台湾総督府条例公布、日清通商航海条約調印(領事裁判権あり)
1897年 ハワイ日本人移民上陸拒否、日チリ修好通商航海条約調印
1898年 アルゼンチン・シャムと修好通商航海条約調印、
1899年 北海道旧土人保護法公布、ギリシャと修好通商航海条約調印、改正条約実施
<h2>第一章 近代日本における対外意識の枠組</h2>
 
 本章では、主として1868年から1878年までの期間に刊行された新聞記事ならびに官報などの資料に基づき、「内地」における対外意識の形成について考察する。なお、本論では当時日本の主権が及ぶ領域として一般に理解されていた地域として「内地」という語を用いることとする。「内地」領域は、19世紀後半期を通じて必ずしも境界が確定していた訳ではない。幕末までは、ほぼ本州、四国、九州及び北海道の一部に限定されていたと考えられるが、明治時代に入って、1870年代を通じて琉球が「内地」に取り込まれ、1895年に台湾、20世紀初に至る過程を通じて朝鮮が版図に取り込まれていく。このような過程を説明するのに、本論では「内地化」という用語を用いる。「内地化」とは、「外地」を「内地」へ取り込む過程(領土拡大ないし植民地化)を意味するが、この過程を通じて「内地人」である日本人の対外意識も変容していったものと考える。対外意識とは、即ち「内地」からみた「外地」ならびに「外国」に対する意識のことだからである。
 はじめに、「日本内地」の周辺部に位置していた蝦夷・琉球に関する「内地人」の対外意識について述べ、続いて、地理的・歴史的にもっとも日本と近い関係の「外地」であった朝鮮について、征韓論及び江華島事件を中心に考察する。これらの地域に対する考察を通じて、蝦夷および琉球の一部の階層に対して使われた土人あるいは土民という用語が、同じく朝鮮人の一部の階層ならびに台湾の生蕃族に対して使われていたことに注目した。台湾を含む中国に対する近代日本人の意識を考察するに際しては、中国と同じく開化途上国であった当時の日本が、台湾に対する蔑視と同時に「大国」支那に対する対等意識を併せ持っていたことに留意する。また、内地雑居論の対象が主として「外人」「外国人」であったことをふまえ、近代日本における「外国」あるいは西欧に関する意識形成について考察する。なお、本論中、中国に対する名称としては、当時の呼称に従って「支那」という用語を用いることとする。(以下、「 」内表示は引用記事の見出しであり、続く[ ]に当該見出しの年号を示した。なお、引用文中の下線は筆者が付けたものである。また、第二章以後では、[  ]内に著者名または新聞紙名を併記した。)
 
<h3>一 蝦夷・アイヌ人</h3>
 
 はじめに、1869年の開拓使日誌から引用する(1)。引用文の主旨は、日本人と「アイヌ
土人」が一致協力して、樺太に雑居している魯人に対抗せよということにある。新興国家日本は開化途上にあり、アイヌ土人と協和し開化に努めることによって、魯人と雑居しなければならないという論理である。ロシアは、西欧の一部として理解されていたと考えられるが、1869年のロシア軍による樺太占領など、軍事的脅威として意識されることが多かった。ここで、内地雑居論の観点から、この日誌にみられる「土人」と「魯人」の対照に注目したい。「土人」という語は、未だ文明化されていない未開・野蛮の民の意味において、「魯人」は近代的な軍事力を有する「外国人」として解釈されている。だからこそ、彼らに対しては「専ら礼節を主とし」「条理を尽」さなければならないのである。
「アイヌ土人と協和し樺太魯人に心用ひよ」[1869]
  一、内地人民漸次帰住に付、土人と協和、生業蕃殖候様開化心を尽す可きこと。 
  一、樺太は魯人雑居之地に付、専ら礼節を主とし、条理を尽し、軽率之振舞曲を我に  取るの事ある可らず、自然渠より暴慢非義を加る事あるとも、一人一己の挙動ある可  からず、必ず全体決議之上是非曲直を正し、渠の領事官と談判可致
 
  当時、土人という語は、必ずしも民族的基準に基づいて使われたのではなく、日本の内地人に対しても用いられた。その一例として、埼玉県令の上奏文を引用する(2)。
 
 「輦轂の下を去る数十里秩父山中に皇化に浴せざる此の山村ありと」[1878]
   三峯村に至る、茅屋敷椽、土人皆襤褸を服し、稗黍を食とす、其状実に都人士のい  まだ夢にだも見ざる所なり。臣其貧にして且陋なること、蝦夷人と殊ならざるを覩て  嘆息すること良久し。
 
 これは埼玉県の山村の例であるが、これに類似した蔑視観は、当時の「都人士」に共通したものであったろう。土人の対概念として「文明人」が考えられるが、上記引用中、土人という用例が文明とか開化といった語の対極にあることは間違いない。その卑俗的な用例が「都人士」と「田舎者」の対比である。一例として、「アイヌ土人」に対する内地人の態度を次の記事にみることができる(3)。
 
  「アイヌ土人の東京文明見物」[1872]
   今般開拓使に於て、蝦夷人の頑陋庸愚をして開化に趣かせんと、男女廿七人米国郵  船アーリヱルに乗込せ、本月廿一日横浜へ到着し、尚廿二日鉄道の汽車にて、東京へ  送られしが、行装奇なるを以て、見物群をなしたり。
 
 遅くともこの記事が書かれた1872年までには、アイヌ人に対する内地人一般のイメージが定着したものと考えられる。それは、土人の用例にみられるように、未開・頑陋・貧困といった、蔑視的な内容のものであった。土人という語の「土」は本来、土豪・土俗・土着等にみられるように、ある地方やある範囲の地域を意味するから、「土人」は土着の人・土民を意味するものであるが、それに未開・野蛮といった蔑視的な意味が付与されていったものと考える。
 
<h3>二 琉球</h3>
 
 1870年代において、琉球と蝦夷はいずれも日本の「内地」には含まれていなかったが、琉球国に対する内地人の意識は、いわば「外地」と「内地」との中間に位置していた。例えば、1872年中の記事に、琉球藩主、琉球国、藩王などと表現されているように、琉球は独立した地域としてみなされ、「先に全く日本政府に隷属してより以来は、日本にて現今たゞ一つ存する所の独立の藩」(4)として理解されていた。
 1875年に、琉球の領有をめぐる日清間の対立が外交問題化した時、内地の新聞は「内務大丞松田道之琉球事件で出張」(5)と書いた。琉球を日本に所属すべき「外地」とみなしていたからこそ「出張」なのである。この記事見出しにみられるように、琉球処分の経過とともに、内地人の意識において琉球の「内地化」が進み、それが1879年の琉球藩廃止・沖縄県設置の強行によって、内地人の対外意識と同時に対自国意識の態様を規定していったのだと考える。
 一方で、琉球人(6)という用例のとおり、内地人は彼らを別種の人々とみなし、その風俗を異質なものとして理解していた。次の記事に、土人という用語があるが、その用例は蝦夷・埼玉県における用例と同じであり、内地における琉球人に対する蔑視意識は、蝦夷の場合と同じく、未開・野蛮といった土人概念にまつわるものであったと考えられる。
 
     道路、溝渠の掃除行き届かざるゆゑ極て不潔にして、健康を害すること少なから   ず。土人は大体赤脚なり……婦人は両手に入れ墨をなし甚だ見苦し……浴湯場なけ   れば終年入浴せざる者多し、故に疾毒流行す、首里那覇等には浴室を設けたし(7)。
        [1876]
 
<h3>三 朝鮮</h3>
 
 蝦夷と琉球が「内地」ではないが、全くの「外地」ではなかったとするならば、朝鮮は本来的に「外地」であったとしなければならない。にもかかわらず、近代日本における対朝鮮観の形成は、琉球の場合と同様に、朝鮮の「内地化」の過程と併行して理解することができると考える。以下、1870年代前半の征韓論論争から1875年の江華島事件に至る期間を中心に考察する。
 
(1) 征韓論
 維新の詔書に対する朝鮮の対応をめぐって、早くも1870年には征韓論が表れている。同年8月10日の太政官日誌に記された横山正太郎の建白書から引用する(8)。ちなみに、彼自身は非征韓論者であり、その主張を訴えるために割腹自殺をとげている。引用文中において、非征韓論者であった彼が朝鮮の「非礼」を問題視していることに注目したい。日朝間の「非礼」問題とは、開国以来日本が受容した西欧的な外交様式と、朝鮮が堅持していた儒教的な外交礼式との、政治体制上の枠組自体ないし政治思想上の根本的な違いに基づく対立であったと考える。だから、日本と朝鮮の双方にとって、相手側は「非礼」となるのである。
 
   朝鮮征討之儀、草莽間盛んに主張する由、畢竟皇国委靡不振を慨嘆するの余、斯く  憤激論を発すと見へたり、雖然兵を起すには名あり義あり、殊に海外に対し、一度名  義を失するに至ては、縦令大勝利を得るとも、天下万世の誹謗を免るべからず……若  し我国勢充実盛大ならば区々の朝鮮豈能非礼を我に加んや慮此に出ず、只朝鮮を小国  と見侮り、妄りに無名の師を興し、万一蹉趺あらば、天下の億兆何と云ん [1870]
  次に、1873年の征韓論関連記事から引用する。はじめの記事は、朝鮮が歴史的に日本の属国だとする説に基づくものであり、二番目の記事は征韓論をめぐる世論の興奮ぶりを伝えるものであるが、これらの文章に当時における朝鮮観の一端を窺うことができる。第三章において、内地雑居に先行した伝統的な「雑居」概念について考察するが、朝鮮に対する歴史的属国説は、日本における伝統的な対外意識の枠組のひとつを提供していると考えられる。
 
 「属国朝鮮の征伐を支那へ交渉 それは只隣国へのお義理だけのこと」(9)[1873]
   朝鮮は、唐の代より世々支那に属せしが、日本平秀吉朝鮮を征伐し、国王遁逃せし  に、明朝これを救ふこと能はず、其後清朝に付属するは人々よく知る所なり。然るに  朝鮮、兼て日本に属することは、日本史中に彰々として明らか也、日本所属最久し、  三韓、百済、高麗、琉球等是なり。今朝鮮国自ら堅固を恃んで日本に服せず故に日本  之を征討せんとて、此事を相談ありたり。
 
 「朝鮮討伐の廟議と世論」(10)[1873]
   先月来朝鮮を伐つの説世間に起り、議士論客紛々として喧しく、随て書生或は商人  に至る迄之を主張するあり又は之を拝する者ありて、中にも兵卒の壮者は久しく無事  に苦み居たりし処、日本兵を海外に出せしは、豊公以来始めての挙なれば、愈快極め  り杯云ひ、切歯の余り已に隊を脱せんとする勢の由なりしが、廟議の許されざること  ありしにや、頃日其議論も稍鎮静に及べり。
 
 これらの新聞記事に表れた征韓論の論調は、歴史的に日本の属国であったとされる朝鮮の非礼に対する制裁論としてまとめられるが、このような朝鮮に対する蔑視観が1870年代の前半期を通じて形成されたといってよい。当時における朝鮮観を支えていたのは、19世紀半ば以降日本が受容に努めた西欧的な進歩主義に基づく、未開国に対する制裁の正当化であったと考えられる。
 
(2) 江華島事件とその後
 征韓論論争に較べて、江華島事件に関する新聞論調は一層過激であり、各紙は主戦論=征韓と、非戦論=非征韓の両論に分かれて、それぞれの主張を紙上に展開した。次に非戦論と主戦論双方の立場で書かれた記事を引用する。この時期に発行された新聞資料を読む場合、1875年に施行された新聞紙条例による言論統制の影響を考慮しなければならないが、ここでは、残された資料をそのまま引用するにとどめる。
 
  「江華島事件で世論益囂々」(11)[1875]
   江華暴発の電報一度世人の耳竅を穿ちしより世論紛紜、新聞各社の如きは各其見る  所、信ずる所に従て之が説をなし、遂に征非征の両派の反対論者に分れたり。其非征  韓論は目を全局全体に注ぎ、在ゆる点より考案を起して断然不可戦の三字を以て真理  の在る所と認め……征韓論者の如きは則ち然らず、権道虚栄の二派に分れ……独り虚  栄論者の胸間に蟠りて、我輩を煩す者は朝鮮の無礼が我国の国辱を来たし、我国独立  の体面に係はるに付き、之を捨てゝ問はざるに忍びずと云ふ、誤謬の見込を執拗する  の一事に止まるのみ。
 
 「果然征韓の論議全国に鼎沸」(12)[1875]
   彼れ曩に我が使節を擯斥し、侮慢蔑視、隣好を脩せず、暴戻無窮、人間交際の義務  たる要道を破り、今亦我が雲揚艦を砲撃して暴悪を逞ふし、無礼を我に加ふる一に非  ず、其罪大且重とす……前年罪の軽き微弱の台湾を討ち、一蹴孤島を斃し、而して今  罪重き鶏林孱弱の鮮奴を討たざれば、人怯と言可くして
 
  戦争に対する賛否両論の立場からではあるが、いずれの記事も、維新の詔書に対する朝鮮側の外交上の「非礼」に言及している。結局、この問題はそのまま、19世紀末から20世紀初頭に至る、日本による朝鮮の植民地化(内地化)まで引きずられていくのである。次の記事は、前掲記事と同じく主戦論に基づくものであるが、西欧列国によるアジア侵略を非難することによって、日本の征韓論を正当化している。
 
  「征韓非征韓両論者の主張 東西の天地を洋夷の蹂躙に委するな」(13)[1875]
   欧州人の意は常に亞細亞地方の地味気候の佳美なるに流涎して、亞細亞国中一寸の  誤謬あれば、之れを尺丈に為し、以て略地の口実となさんとするなりと。実に今日の  地球上の如き万国一政府となるに非れば、未だ強を以て弱を呑むを免かるゝ能はざる  なり。豈油断すべけんや。
 
  いずれにせよ、江華島事件は単なる「事件」ではなかった。日本国民にとっては、前年の台湾事件に続き、戦争に至るかもしれないという不安と危機感をともなう大事件だったのである。対外意識の態様に関していえば、事件を通じて朝鮮に対する属国視が、国民の間により一層の広がりを持つようになったと考えられる。
 次に、当時の日本人がもっていた朝鮮人に対する蔑視観の一端を窺わせる資料として、豪商大倉の寄稿文から引用する(14)。
 
      朝鮮政府の人民を牧するや、殊に圧制を極めたる者にて、人民もまた権理の何者た  るを知らず、貧を常とし苦を甘んじ、富貴を羨やむの念なきが如く麁食を喰らひ水を  飲んで足れりとする風あり……一般に遊惰を事とし、何なりとも口腹さへ満れば足れ  りとし、又事業を営むの意なし、実に蠢々たる愚民どもなり。此調子にては、幾百年  を経るとも文明開化の域に進むの日あるべしとは思はれず……韓人一般に今日の応対  の礼は甚だ厚きが如く、談上には閣下云々など総て礼敬を尽したる言語多けれども、  其座作進退の様は不行儀千万なること恰も支那人と同様なり [1877]
 
 この文章に表れた蔑視観は、大倉個人の朝鮮人に対する偏見に根ざすものというよりは当時日本人の多くが持っていた朝鮮観の反映というべきであろう。「未開」人に対する徹底した蔑視であり、日朝間の歴史的関係に関する意識の欠落である。引用文中に、朝鮮人の「不行儀」さを支那人に重ね合わせているが、第二章で考察している支那人問題における対外意識と共通する枠組を示している。この時期を通じて朝鮮関連の記事は多く、新聞の普及と相まって、日本人の間に「未開」「頑陋」という朝鮮のイメージが伝播していったものと考えられる。
 
<h3>四 支那・台湾</h3>
 
 支那に関する新聞記事から読みとれるのは、日本人の側にあった「大国」支那との対等意識と蔑視感情の交錯した支那観である。はじめに、対等意識ないし開化の競争相手としての支那イメージを伝えた記事を引用する。
 
 「大日本へ忠言 日本は世界の中心と煽て上げる」(15)[1868]
   支那も是迄は大国なりと自慢し他国を侮しが先年外国と戦争より自己の非を知り、  国を強くせんと心がけ学問芸術も西洋風を学び、運上所は西洋人をやとひおき……日  本人も早く目をさまし支那人に負ぬよう心がけ、外国の津々港々へ日本のはたをひる  がえし、日本への入船よりも日本よりの出船多きぐらゐにいたることをつとむべし
 
 「清国=日本に通商を求む」(16)[1873]
   支那従前頑固の風を守り、敢て外邦と歯ひせざりしに、近頃漸く開化の歩を起し、  電信、鉄道を企て、各国公使を延見し、商船を四方に差向くるに至る、其気象恐るべ  し、必ず従来の支那を以て蔑視することなかるべし。
 
 支那が開国して開化政策をとるようになると、「其気象恐るべし」とし、日本の下位に甘んずるような支那ではないとして警戒するのである。ここに表れているのは、開化した支那と従前の頑固とされた支那に対する、はっきりした区別であり、その基準となっているのは開化主義に基づく開化段階における上下関係ないし優劣の評価である。他方、台湾に関する日本人の意識は、支那に対するものとは大いに異なる。台湾事件をめぐる日清間の外交摩擦の中に、日本の支那に対する意識がありありと表れていると思われる。
 
 「台湾は御自由に 米英仏兵台湾を攻略か」(17)[1868]
   台湾にて外国船破損するときは、土人之を救はざるのみか、之を打殺し荷物をうば  ひとるなど、残忍無道のふるまひをなせるに付、アメリカ、イギリス、フランスにて  軍艦十五艘に兵隊大勢を乗込ませ、此島を取り、もし敵となれば、一島を皆殺にせよ  と号令を下せるよしなり……このひらけたる世の中にて、かゝる非道の事をなせるも  のはダイワン人ばかり也とぞ。
 
 「台湾紀聞」(18)[1874]
   台湾問罪は戦伐の故にあらず其土人を撫順する為にして、兵隊を留置き、兵営を築  造する等にて、元来琉球人を殺害せし蒙昧無智の野蛮なれば、是を教化し是を帰順せ  しむるにあると聞けり……
 二つの記事に共通しているのは、台湾人=土人という見方である。「残忍」で「無知蒙昧」な土人は「皆殺し」にしてよい対象であり、彼らに対する軍事力の行使は戦争ではなく、教化なのだという論理である。台湾はまさしく未開地とみなされていた。だから「台湾匪賊掃蕩開始」(19)「我軍牡丹生蕃の巣窟を衝く」(20)といった見出しが頻出するのである。日本は、このような台湾観に基づいて、台湾の領有権をめぐって支那と対立するのである。
 日清間の交渉結果について、日本国内では日本側の勝利として受けとめられたが(21)、このことは日本人の清国に対する意識のみならず、対外意識全般について少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる。交渉の任に当った大久保は、凱旋将軍待遇で国民に迎えられている(22)。同じことは、江華島事件についてもいえるのだが、清という「大国」に対する勝利感のもたらした意味は大きかったといわなければならない。交渉さなかに書かれた次の記事は、上海の欧文紙からの転載記事であるが、そこに支那の大国意識を見るとともに、その大国に対抗しようとする日本側の対清国意識を読みとることができる。
 
 「弱小日本豈中華に敵し得んや、尊大の清人皆此の妄見に立つ」(23)[1874]
   [日本は]小島のみ、富て且つ強きの中国と相抗衡せんと欲するは抑々何ぞ愚の甚し  きや、卵を以て石を打つの理を知らざるか、他日若し兵端を啓かば、遂に志を上国に  失なふのみならず、恐らくは又自から存すること能はざらんとす……是みな支那人の  論ずる所にして其文意を見るに、妄りに自から尊大にして、我が堂々たる大日本国を  蔑視すること甚だし。其中国或は中朝と云ひ華及び中華と云ふも亦自大の語なり。以  後之に傚へ。
 
 支那人一般に対する日本人の意識の一端を窺わせる材料としては、「支那根性丸出し―泥まみれの蕎麦を喰ふ」(24)、「日本娘と結婚したい」という見出しの、横浜在留清国人が同国領事に提出した願書の紹介記事(25)などがある。次の記事は「風説」とはいえ、後の内地雑居論において支那人との雑婚が否定されていることを考えると、たいへん興味深い。当時の新聞紙条例による言論統制を考慮すると、これらの記事を文字どおりに解釈してよいものかどうか、疑問の余地があることは否定できないのであるが、支那人に対する日本人の差別意識の発生時期を考える上で参考になると思われる。なお、内地雑居論争を通じて最大の争点のひとつであった支那人問題については、第二章において考察する。
 
 「支那へ養子に行ける」(26)[1876]
      是迄我が国民の清国人の養子となるは官の許さざる処なりしが、以来は許可に相成  り、又近々府下へ外国人の埋葬地が定る由、いづれも道路の風説。
 
<h3>五 外国・外国人 </h3>
 
 「外国」とは、即ち近代西欧諸国のことであり、朝鮮・支那などの「外地」は含まれない。それは同時に「文明」であり、近代日本が指向した開化政策のモデルとしての西欧であった。本章において、「内地」「外地」について述べた後に「外国」をとり上げるのは当時における「外国」ならびに「外国人」の概念を明確にしたかったからである。
 はじめに、1870年前後における「外国」ないし「外国人」に関する意識について考察する。次の記事は、1868年の英公使襲撃事件に関する横浜新聞の抄訳であるが、1860年代を通じて継起した外国人殺害事件の中に、近代日本人の「外国」に対する意識の祖型があったと考えられる。排外思想の態様のひとつとしての攘夷運動の中に、近代日本における対外意識の萌芽を見るものである。
 
 「一人殺さるれば千人を殺せよ 英公使襲撃に外人極度に憤激」(27)[1868]
   最早寛大の処置を行ふべき時にあらず、欧羅巴人、米利堅人、身に一亳の罪無くし  て命を失へる者既に三十人に及べり、此後かくの如き枉死の数増加せん事疑ひ無し、  然れば手荒き処置を行ひて日本人の暴悪を止むべき事当然なり……一人殺さるれば千  人を殺すの心を以て復讐を行ふべし。吾等一度命令を下せば、日本は外国の才智兵力  に屈服せざる事を得ず。日本人若し頑固なるときは遂に印度人の轍を履むに至るべし。
   日本人は欧羅巴、米利堅等に往きて其国人の如く自在に歩行するも妨無し。何故日  本にては外国人にこれを許さざるや。畢竟日本人をして其陋習を改め、公平の法を守  らしめんが為には、大軍を上陸せしめて国内に攻入り、軍艦を以て海岸を囲まざるを  得ず。
 
 19世紀後半の国際的条件のなかで、西欧列国の軍事的、政治的な圧力によって開国を受容した日本の支配層ないし武士階級にとって、「外国」とは先ず軍事的威嚇として存在した。「外国人」を排斥するか、さもなければ彼らに支配されるかという、幕藩体制の存続そのものに係わる危機的状況があったのであり、「外国」に対する意識の基底には私たちの想像を超える危機意識があったと考えない訳にはいかない。そのような強烈な危機意識に根ざしたところに、対外意識の淵源があったと考える。
 維新前後に頻発した外国人ならびに日本の貿易商人に対する殺害事件は、農工商階層における「外国人」イメージにも少なからぬ影響を及ぼしたものと思われる。当時の時代相を、1869年4月の御触書に窺うことができる(28)。
 
 「外人軽侮を戒飭 国難惹起を怖る」[1869]
   品川且大森に於て、外国人を暴に馬車より引卸し、剰へ刀を抜き候様子之挙動有之  且其前も道に控へ居候英吉利公使を差留候者有之、又横浜表において路上仏蘭西人に  対し、無謂打撃致候者屡留有之、右者是迄度々被仰出候趣不相守、道路においては往  来半を譲り通行可為致旨布告之処、前書之始末、第一勅命を軽じ、現在御国難を引出  し候所行に付、以後猶又屹度相心得可申、若し此後違背者之輩於有之は、当人は勿論  其主人に至まで、屹度厳重被為処旨御沙汰候事。
 
 次に、上述の危機意識の対極にあったと考えられる、開国に対する期待感ならびに「外国」崇拝意識について触れなければならない。ふつう、私たちが明治維新あるいは文明開化を通して描いている明治時代像は、実はこのような側面しか映していないのである。
 「大阪も交易開始」(29)[1868]
   大阪は繁昌にて、七月十日より外国の交易をひらきたり……兵庫外国人居留地より  一里のうちは、借屋、借地自由なれば、この蒸気車成就の上は、商売の繁昌もやがて  横浜どうやうにいたるべし。外国人、日本の国内何処にても自由に往来出来たらば、  金銀銅鉄その外の物産増加すべきなり。
 
 「江戸も交易開始か」(30)[1868]
   当八月十五日より江戸にて外国人の交易はじまるべし。日本政府も日々ひらけかた  進みて、外国人をにくむ心やみたれば、数年のうちには全国大にひらけて、亜米利加、  英吉利のごとく世界中に付合ふならん。
 
 これらの記事にみられる外国像は、上述の危機意識に基づく排外意識とは、著しい対照をなしているようにみえるが、「外国」に対する崇拝意識と排斥意識の交錯の中に「外国人」ないし「外国」に対する日本人の意識が形成されたというのが本論を通じた問題意識の基底にある。いいかえれば、「拝」外意識と「排」外意識の葛藤の中に、対外意識の祖型をみるのである。第二章で論ずる内地雑居論争とは、対外意識形成という観点からすれば、これら二つの相反する対外意識の間の論争として位置づけられよう。
 
<h3>六 取り込み過程としての内地化</h3>
 
 1870年代において日本は、蝦夷・琉球の内地への取り込み、朝鮮に対する「征韓」政策の実施、台湾という「外地」の日本国内への取り込み、開化政策をとりはじめた「大国」清国に対する対等意識の形成などを通じて、しだいに東アジア地域に関する対外意識の枠組をととのえていった。同じ時期に、土人という用語に象徴されるような、内外地を問わない未開・野蛮地域の人々に対する蔑視意識が形成されていく。この時期における、土人ならびに「外地人」に対する蔑視意識は、民族主義的な対外意識に先行するものであり、それはやがて近代国家意識のなかに収束され、対外的な民族意識の形をととのえていったと考えられる。
 近代日本における「外地」の「内地化」過程を、本章で輪郭を提示した、周辺地域の取り込み過程として解釈することができるものと考える。明治期日本による「内地化」過程は、日本の周辺にある「外地」を、明治政府外交政策上の「利益線」から「主権線」の範囲内に取り込んでいく過程そのものであったともいえるであろう。この時期を通じて、空間的な領域としての「内地」概念が拡大され、内地雑居(=混住)の対象として支那・朝鮮人を除く「外国人」概念が形成されたものと考えるが、これら「内地」及び「外国人」という二つの概念の形成が、その後の内地雑居論議展開のための土台を提供していると考えるものである。
 
第一章注
(1) 開拓使日誌 1869年9月『新聞集成』第1巻 p.313
(2) 朝野新聞 1878年9月3日『新聞集成』第3巻 p.441
(3) 東京日日 1872年5月23日『新聞集成』第1巻 p.459 
(4)「琉球人来朝 市中取締方注意」 東京日日 1872年8月25日『新聞集成』第1巻 p.482
(5) 評論新聞 1875年5月『新聞集成』第2巻 p.329
(6)「おづおづ育つ琉球」 東京日日 1875年4月23日『新聞集成』第2巻 p.311
(7)「琉球通信」郵便報知 1876年6月1日『新聞集成』第2巻 p.546
(8)「鹿児島藩に非征韓論あり 横山正太郎割腹始末」太政官日誌 1870年8月10日『新聞集成』第1巻 p.338
(9) 東京日日 1873年9月14日『新聞集成』第2巻 p.71
(10) 新聞雑誌 1873年11月『新聞集成』第2巻 p.91
(11) 郵便報知 1875年10月22日『新聞集成』第2巻 p.418
(12) 東京曙 1875年11月2日『新聞集成』第2巻 p.424
(13) 評論新聞 1875年11月『新聞集成』第2巻 p.427 
(14)「朝鮮に活躍しつゝある豪商大倉喜八郎よりの消息」東京日日 1877年7月12日『新聞集成』第3巻 p.246
(15) もしほ草 1868年9月9日『新聞集成』第1巻 p.177
(16) 新聞雑誌 1873年8月『新聞集成』第2巻 p.65
(17) もしほ草 1868年11月23日『新聞集成』第1巻 p.214
(18) 郵便報知 1874年4月16日『新聞集成』第2巻 p.153
(19) 郵便報知 1874年6月10日『新聞集成』第2巻 p.171
(20) 東京日日 1874年6月26日『新聞集成』第2巻 p.174
(21)「清国遂に我が正義に屈服す 二百万テールの償金提供か」新聞雑誌 1874年11月14日『新聞集成』第2巻 p.230
(22)「台湾事件の談判に成功して大久保弁理大臣清国より帰る」 郵便報知 1874年11月28日『新聞集成』第2巻 p.238
(23) 東京日日 1874年10月15日『新聞集成』第2巻 p.219 
(24) 讀賣 1876年5月26日『新聞集成』第2巻 p.540
(25) 朝野新聞 1878年10月16日『新聞集成』第3巻 p.461
(26) 浪花新聞 1876年8月14日『新聞集成』第3巻 p.32
(27) 中外新聞 1868年3月13日『新聞集成』第1巻 p.20
(28) もしほ草 1869年4月10日『新聞集成』第1巻 p.264
(29) もしほ草 1868年8月25日『新聞集成』第1巻 p.163
(30) もしほ草 1868年8月27日『新聞集成』第1巻 p.166
<h2>第二章 内地雑居論にみられる対外意識の態様</h2>
 
<h3>一 内地旅行論争</h3>
 
 明治初期に、外国人に対して遊歩規程地域以外における旅行を認めるべきかどうかについて、いわゆる内地旅行論争があり、稲生典太郎の時期区分によれば内地雑居論前史に属するが、拙論では内地雑居論争の一部として扱う。西周と福沢諭吉は、1874年から75年にかけて『明六雑誌』誌上において内地旅行論争を展開しているが、西の賛成論(1)に対して福沢は反対の立場をとった(2)。ところが、その10年後に発行された『通俗外交論』において、福沢は内地雑居を肯定しており(3)、その間における福沢の対外認識の変化を窺うことができる。内地雑居論争の展開の中に、福沢のこれら二つの論文を置いて解釈するならば、その変化をもたらしたものは、日本の国内状況ないし人民の状態に対する彼の認識の変化であり、それは同時に日本人の排外意識に関する認識の反映でもあったと考えられる。
 
   抑も御一新とは何事なるや幕府屋の看板卸して天朝屋の暖簾を掛け今の参議を昔の  閣老に比すれば毛が三本多ひ位の相違にて等しく天保以来日本に産したる人物の外な  らず此参議以下の役人を集めて立たる政府にて其針路は好和開交と定るも唯政府一家  の針路のみにして人民は則ち然らず此民は旧幕の専制を以って行はれたる無気無力の  瓦石なれば昔より今に至るまで針路も方向もある可からず仮令ひ七年の間に骨質は一  新するも其気質は依然たること疑なし……外国の交際に就て全国の利害に関する事を  論ずるに当て此人民は矢張幕府より譲受けたるまゝの人民と視做して説を立てざる可  らず此人民を以前同様の人民と視做し御一新の甲斐は未だ人心の底まで達せずとすれ  ば内地旅行は無拠尚早しと云はざるを得ず(2)[福沢、1875]
 
    三十年前の日本と今の日本とは全く面目を改めたりとは申しながら今日に於ても尚  外国人を嫌ふ者はなきや、仮令ひ之を嫌はざるも外国人なるの故を以て之を疎遠にす  る者はなきや……外国の宗旨とあれば其信仰不信仰に拘はらず之を忌み嫌ふの情はな  きや、日本人にして外国人と縁組すれば表向に之を咎めざるも内実は之を止めんとし  又これを止めたるの例はなきや、我日本は仁義礼智信の国なり西洋は耶蘇十戒の国な  り道徳の根本相異なるとて少しく之を賎しむるの情はなきや(3)[福沢、1884]
 
 1875年において福沢は、人民の状態を徳川時代と少しも変わっていないものとみなし、維新政府によって定められた好和開交の精神が未だに「人心の底」に達していないとしていたが、84年になると、日米和親条約以来30年経って日本が一応は「全く面目を改めたり」としている。ここで興味深いのは、彼が日本の変化の基点を明治維新にではなく、幕府が各国との和親条約を締結し、開港の方針に転じた54年に置いており、その後30年にして体勢としては日本が改革されたと考えていることである。但し、福沢が84年の時点にあっても、人々の間に残存する排外意識に関して全幅の信頼を置いていないことは上記引用文にも明らかである。彼が、75年から84年の期間中に内地旅行反対から内地雑居肯定に転じたものの、日本人の中にある排外意識が、状況変化に応じて再び表面化することもあるものとして認識していたということである。
 内地旅行論争ないし内地雑居論争の賛否両論を分かつものは、自国の急速に変化していく状況に対する対内認識に基づいた自(国)意識であり、前頁の引用文(後者)において福沢が、1884年当時まだ潜在的に残っていると考えた排外意識に対して懐疑的であったことが示唆しているように、排外意識と密接な関係にあった。南博は『日本人論』(4)の中で、74-5年における西と福沢の内地旅行論争を比較して、前者を「日本人変化説」とし、後者を「日本人不変説」として類別しているが、これは彼等における対日認識あるいは日本人観に基づいた分類である。この分類によれば、75年当時の福沢は「不変説」とされているが、この説に基づくならば、その後福沢が「変化説」に転じたと考えなければならない。
 
<h3>二 居留地制度と内地雑居的状況
</h3>
 
 内地雑居論との関係でいえば、内地雑居賛成論者にとって、居留地は即ち非内地雑居の象徴であり、治外法権の撤回と同時に廃止されるべき制度であった。明治政府の法律顧問のひとりロエスレルは、万国公法主義に基づいた『内地雑居論』の中で、居留地制度のもたらす弊害について次のように述べており(5)、その後の内地雑居論争における、居留地に対する基本認識のひとつを提供しているように考えられる。
 
   外国をして辺隅数ケ所の海港に聚合せしむるは、日本人との交際に於て反て彼に勢  力を有せしむるの基にして、則日本人と分離して自ら一社会を為し、其一社会たるの  特権を要請し施用するに至らしむる所以なり……此聚合の勢を予防するには、唯外国  人の内地居住を許すの一事に在り、若し然せすんは、他日横浜の日本に害ある、猶香  港の支那に於るか如きあるを保す可からす [ロエスレル、1879]
 
 他方、居留地制度下における内地雑居的状況の進行に関連したものとしては、1884年に早くも時事新報の次の記事がある(6)。
 
   政府縦ひ外人の雑居を禁するも雑居の実は漸く行はれて之を奈何ともする能はず況  んや之を禁せずして更に之を許すに於てをや我国内地の人民は早晩西洋人に直接して  之と雑居するものと覚悟して可なり [時事、1884]
 
 居留地という領域は、初めから内地とは区別された異領域として受け止められていたと考えられるが、そのことは内地雑居を実施することに伴う居留地領域の実質的拡張に対する危惧感につながっていたと理解される。1884年3月の朝野新聞の「団結の危害」と題する記事には、「他の自由の国民来たりて其要港に蟠居し貨財の権と兵力の精とを以て其国を奪はんと欲す」(7)とあり、明治初期の日本人に共通した、いわば内地の中にある独立の外国としての居留地像を描写している。この関連で、明治以後の居留地における自治行政の実態も見逃せない。人見一太郎は『国民的大問題』の中で、その淵源に言及している(8)。
   明治の初年、神戸大坂の居留地に向て、自治を与へたるは、明治政府第一の失策な  り。外人の神戸大坂の居留地に在るや、道路、瓦斯燈、衛生、等総てに就て苦情を発  したるを以て、政府其煩に耐へす、特に収入と支出と相償はさるを以て、苟息の方法  を案出し、居留地の租税を減して、自治を外人に一任するに至りたり。是れ実に日本  国の一部分に於て、独立せる一小外国を立てたるか如きものにして、その一国の主権  を損する、頗る大なるものあり [人見、1893]
 
 1890年に発行となった坂本則美の『実力政策』では、「居留地制限の偉力」によって外国人による商工業活動が制限されていることを指摘して、内地雑居尚早論の立場から居留地制度が果たしていた一定の役割を評価している。一方において、内地雑居的状況の進展に伴う実質的な「雑居化」によって、居留地制度の持つ制限的効果が減少したのに伴い、条約改正交渉における内地雑居のいわば交換条件としての価値が減じたとしている(9)。
 
   内地を開放するは大に彼に利ありて而して治外法権の撤去は今日に於ては彼れか為  めに大に不利とすることあらさることを知るへし再説すれは内地の雑居に価値を加る  こと一分なれは居留地の制に価値を減すること亦一分なる……故に彼外人の内地に入  らんと求るもの亦自己の為め又自国人の為めに条約の改正せられんことを促すものな  り [坂本、1890]
 
 居留地制度下にあって、居留地周辺部における内地雑居的状況の進展は、1890年代には、田口卯吉をして「現今我邦の事情は実に内地雑居なり」と言わしめるに至る(10)。また、キリスト教の布教活動に対する仏教者側からの批判の中に、当時宣教師が行使していた内地旅行ならぬ内地布教活動の実質的自由に対するものが多い(11)。仏教者の側における危機意識が強かった背景には、宣教師たちの内地における積極的な布教活動があったと思われるが、この問題については、人見も前掲書の中で次のように触れており(12)、あながち仏教者だけの問題ではなかったことが窺われる。
 
   宣教師は今日半ば内地雑居の特許を得、その行かんと欲する所に之き、その止まら  んと欲する所に止る……殆んど住居の自由と伝教の自由を有す。内地を開放すると否  とは、彼等には余り大なる関係あらぬ也 [人見、1893]
 
 序論で触れたとおり、現実には神戸居留地の周辺には、既に1868年には明治政府によって内地雑居が認められていた。高橋自恃は、大阪朝日新聞紙上の連載記事(93年10-11月)の中で神戸雑居地の沿革と実態に触れて、内地雑居反対の立場から「此雑居の取極は雑居の起原なると与に条約違反の起原なり」(13)としたが、この問題は内地雑居論争において広く取り上げられた。現行条約励行論者はこれを条約励行の必要性の根拠のひとつとし、反励行論者は内地雑居実施の理由としたが、神戸のみならず、各居留地の周辺において内地雑居的状況が進行していたのである。
 居留地制度をめぐる内地雑居論は、1893年から94年にかけて起こった現行条約励行論者とその反対論者の間の論争において、最も対立的な形で表れているが、なかでも陸羯南と朝比奈知泉の間の論争が著名である。朝比奈の論旨は、居留地制度の弊害を認める点では陸と同じであるが、明治政府が実施してきた居留地における自治権や無条約国人に対する裁判権の奪還を評価し、その延長上に対等条約の締結があるとする点に特徴がある(14)。両者ともに居留地制度の弊害を指摘しながら、現行条約励行論=雑居反対論者の陸が外国人を居留地の中に制限すべしとするのに対して、反励行論=雑居肯定論者の朝比奈は居留地を廃止して外国人を内地に分散すべしとするのである。
 
   明治五年白露売奴船マリアルズ号の処分を断行したるを手始として無条約国人民の  裁判権を我に回収し……[翌六年]無条約国人民に対する帝国の支配権は茲に完全とな  りぬ英仏の駐屯兵は八年一月を以て撤退し外国郵便局は明治六年より十二年に渉りて  悉く之を閉鎖せしめ横浜長崎の居留地に於ける行政の自治は……之を我政府に回収し  兵庫大坂の居留地を除きては復た外国吏員の行政を許さず [朝比奈、1894]
 
 1890年代以後の時期には、内地雑居論の特に反対論者の間において、欧米人に対する反感ないし蔑視に近い見方が顕在化する。これは、後述するごとく国権意識の高揚に伴うものであった。現行条約励行論者でもあった陸羯南は『外権内侵録』を通じて、多くの内地雑居論が「名分」論に堕していることを批判し、「実利」論の立場から横浜居留地及び周辺における詳細な実態調査に基づいて、外国人の「内侵」ぶりを糾弾している(15)。次の文にあるように、横浜居留地及び周辺の実態調査を通じて彼が浮き彫りにした「白人」像は、崇拝すべき西洋文明の体現者としてのイメージからはほど遠いものであった。
 
   元来白人なるもの彼等同士の外に人情も義理もなきものなり彼等の日本に在るは唯  だ利を射るが為め而巳利外には殆んど同情同感なるものあることなし彼等の不人情は  彼等が洋妾に対するの所置如何を観ても亦た知るべきなり……吾輩は洋妾にして妊娠  の為め病気の為め全く外人より遺棄せられ現下困難し在る者数人に会ふ其談する所を  聴て顰蹙せり [陸、1894]
 
<h3>三 国権主義的傾向</h3>
 
 1890年代に入ってからの国権主義的な内地雑居論のながれについて考察するためには、国家主権と国際条約との関係に関する解釈の違いに基づいて、実体的な平等を主張する「実利論」と、治外法権の撤廃による条約上の平等を重視する「権利論」とでも呼ぶべき両論の間にあった条約改正論議について触れなければならない。次に引用するのは、坂本則美と原敬における例であるが、前者がいわば「実利論」であるのに対して、後者は「権利論」と呼ぶことができる。坂本のいう「実力」とは、経済力・軍事力に裏づけられた国力であり、それがない限り治外法権を撤回して裁判権を獲得しても無意味だとする。したがって、関税自主権の回復をより重視することになる。これに対して、原にあっては法権の回復こそが国家主権の確立にとって最も重要だと考えられた。実際には、94年の条約改正においては法権だけが回復され、税権の回復は1911年のこととなる。
    余か世の論者の執らんとする裁判権回復政策を以て不可なりとするもの亦裁判権の  回復を是れ望まさるに非す之か報酬として与んとする内地雑居のことの実力政策上に  照らして未た以て彼に許すへきの時期に達せされはなり……夫れ国は独立を貴ふ其独  立すると否とは其国の力如何にあり力あれは此に国あり力なけれは此に国なし此故に  仮令表面には独立の名あり対等の名あるも其実力にして対等なる能はされは其所謂独  立対等の名は徒に是れ虚栄虚誉たるのみ(16) [坂本、1890]
 
   国の権利を捨てゝ利益を求むるか将た国の利益を捨てゝ権利を全ふするか此二箇の  内に就き若し権利を捨てゝ利益を求むるに決せは我政府は澳洪国相当の高等法廷に上  訴して其裁決を受くへし……然れとも是れ実に国家の権利を害すること大なるものな  るに因り権利を重んする主権国に於ては宜しく之を避くへきものなり故に此場合に於  ては寧ろ利益を捨て権利を全ふするの策を取るへし(17) [原、1891]
 
 内地雑居を治外法権撤廃のための、いわば交換条件として考える雑居肯定論者に対し、雑居反対論者は内地雑居をあくまでも国家主権に属する問題だとして、1890年代の前半になると、国権主義的な傾向を強めてゆく。キリスト教の布教活動に脅威を抱く仏教者の中にも、このような国権主義的傾向に同調する考え方が見られる。仏教者における内地雑居に関する危機感は、キリスト教による仏教教団に対する侵略としてとらえられていただけに、きわめて深刻なものがあり、その強力な排斥意識から容易に国権主義的傾向に同調する素地があったといえる。その背景には、前節で触れたように、内地雑居的状況下におけるキリスト教宣教師による布教活動の進展があったのである。中西牛郎は『内地雑居と仏教の関係』において、「若し耶蘇教にして我邦に進入して勢力を得るなからしめば……我邦仏教は之に由りて国教たるの名実を有し」たであろうとしているが(18)、これは伝統的な護国仏教観の変形とでもいうべき考え方であり、国権による宗教の保護と考えられなくもない。鈴木僧隆は「日本の仏教は全世界の仏教なり、全世界の仏教は、今日唯々我帝国に存するのみなり」(19)とした上で、次のように述べる。彼等にとっては、日本の皇国仏教が同時に世界仏教たり得るのである。
 
   東洋の我が皇国は彼れ列国とは霽壌の差あり、即ち洋の東西を異にし、国体、宗教、  人種、礼式、風俗、習慣、家制、言語、文字、歴史、等、種々なる差違の点あるにあ  らずや、抑々対等条約は対等条約にして、独立帝国の国権にはあらずや内地雑居は、  内地雑居にして、利害得失如何に因て、許否の遅速は是れ又独立帝国の国権にはあら  ずや [鈴木、1893]
 
  神戸雑居地の実態を批判した高橋自恃は『内地雑居論』の中で、国権拡充を「根」に、条約改正を「枝葉」に例えて、以下の「国権回復論」を展開している(20)。後述のとおり彼の論の基本には排外意識があり、その表れとして攘夷あるいは国権回復があるとするのだが、国権回復とは即ち現行条約励行、国権拡張ないし対外戦争を意味していた。次に引用する記事が大阪朝日新聞紙上に連載されたのが日清戦争の前年末であることを考えると、この時期にみられる排外的風潮の高揚が、近代における初の対外戦争となった日清戦争遂行のための世論を醸成していたと考えられる。高橋の考え方で見逃せないのは、いわゆる和魂洋才論の枠組に基づく西洋思想の日本への取り込みであり、西欧との対等意識とでもいうべきものの形成である。高橋は他の箇所において、西洋思想を「唯物に偏倚」した物質文明と規定した上で、「我が人道文明の主と彼の物質文明の客と措置其所を誤らざらんことを要するのみ」(21)としているが、これなどは一種の日本文明優位説と理解することも可能である。高橋のように、西洋文明に対して物質文明という限界を付した上で、日本の伝統的な精神文明を補完するものとして認める時、西洋文明は日本文化の枠組の中に、あくまでも部分的・制限的に認められた限りにおいて取り入れられるのである。
 
   我も亦日に国力を養ひ、月に実権を充し軍艦兵員を五倍し十倍し、以て国権を拡張  し、以て英仏露独と其強を角せざる可らず……苟も此の大決心あらん乎、国権回復の  最後の覚悟は戦なる哉、戦なる哉……仮令血を見るに至らずとも正当防衛の大決心あ  り、而して後条約の改正得て期すべく雑居の法制得て厳施す可し、嗚呼理論を実行す  る所以の者唯此実権のみ、国権を回復する所以の者唯此大決心あるのみ (20)
   [高橋、1893]
 
<h3>四 排外意識の態様</h3>
 
 条約改正の前年である1893年の後半において、大日本協会の設立や第五議会における現行条約励行建議案の上程等に見られる内地雑居反対論の台頭をもたらしたものは、幕末以来の排外意識であったとする論が多い。その代表的なものを以下に掲げるが、田口卯吉は雑居肯定論、高橋自恃は反対論の立場にあった。福沢の主宰する時事新報は、93年頃の排外的風潮の遠因を明治14-5年[1881-82]における儒教主義教育の浸透に求めている(22)。
 
   内地雑居に対する反対論は、いま又世上に顕はれんとせり……盖し内地雑居を恐る  るの感情は、全く開港を恐るゝの感情と性質を一にするものなり、今まや鎖港攘夷の  議論は一箇の迷夢に帰したりと雖とも、其気は自ら人心の中に埋伏して、事あるに臨  み常に発出せんとせり、非内地雑居論の本源は実に茲に存せざるべからず(23)
   [田口、1893]
 
   立国の大方針は対外独立の大義なり、対外独立の大義は諸公及諸公の先輩師友が維  新前に唱道せし尊王攘夷に外ならず、維新前は則ち攘夷、維新後は則ち国権回復、其  名異なりと雖も其精神実に同じ(24)[高橋、1893]
 
 田口は、内地雑居を恐れる感情が、かつての開港を恐れた感情と同質のものであるとし、内地雑居反対論の淵源が攘夷思想にあるとしている。この考え方は高橋とほぼ同一だといってよく、内地雑居に対する考えを異にする両者ではあるが、排外意識の果たしている役割についての認識では一致するのである。排外意識の態様にはさまざまな形があるが、そのひとつが後述する支那人問題にみられるような、相手側に対する蔑視を介した取り込みであると考えられる。排外意識と密接不可分の関係にあったと考えられるのが、日本人の大半が持っていたとみなされる欧米に対する劣等意識ないし一種の恐怖意識である。その変形として欧米との対等化願望があり、その反面に欧米人以外に対する蔑視感情があったと考えられる。これらは、開化政策の実施に伴う西欧崇拝主義と表裏一体のものであり、新聞記事等の資料によれば、欧米崇拝感情はかなり広範にわたって国民意識の中に浸透していたものと理解される。このような劣等意識ないし欧米崇拝感情は、いったん逆転すれば欧米に対する排斥感情として表れることが可能であったと考えられる。
 内地雑居推進派の原敬は『新条約実施準備』において、外国人に対する内国民待遇について記述した箇所に続けて、「排外思想」について次のように述べている(25)。原にあっては、「排外思想」と愛国心が対比されており、内地雑居反対論者が両者を互いに関係あるものとして考えているとしている。
 
    世間猶種々の議論あるは畢竟其論者中に排外思想ありて、成べくは外国人の設立に  係る学校の隆盛ならざらんことを望み、又は外国人の設立したる学校は我子弟をして  愛国心を薄からしむるならんと恐るゝが為めなり [原、1898]
 
 1893年から94年にかけての内地雑居論争を概観する時、賛否両論の対立上ひとつのピークをもたらしたものが大日本協会の設立であり、第四議会における条約改正上奏案の採択と第五議会における現行条約励行建議案の僅差による否決であったとみなすことができる。次に、大日本協会趣旨書(26)の一部ならびに同会関連の朝野新聞記事(27)を掲げる。前者は、内地雑居を国家主権の範疇に属すものとみなす「実利論」のながれにあり、後者は内地雑居を条約改正のための交換条件と考える雑居肯定派である「権利論」に属するが、両者ともにこの時期における排外主義的な風潮を反映している。
 
   今の条約改正を策するものは内地雑居を以て国権回復の報酬に充て外風模倣を以て  雑居の準備と為し復た其結果の国性に害あるを顧みず流弊の及ぶ所、現存約条も尚ほ  且つ確守する能はず……吾人固より条約改正を切望す、領事裁判の制宜しく撤去すべ  し海関税法及諸法制定の機宜しく回復すべし、而して内地雑居は我国情未だ之を許さ  ざるなり要は帝国固有の主権を確守し帝国須要の条体を規定すること猶ほ泰西諸国の  為すが如きを期するのみ若し夫内地雑居の許否は本来我国の主権に属す固より領事裁  判の撤去、税権回復と相関せず国情巳に外人の雑居を許さゞれば則ち暫らく之を制限  する何の不可か之れあらん [大日本協会、1893]
 
   今日の有様即ち内地雑居の有様ならば、条約改正内地開放後の内地雑居亦恐るゝに  足らざるにあらずや、然るに非内地雑居派の論者は頻りに外人を恐怖し、一旦内地を  開放しなば日本は忽ち亡国となるかの如く吹聴す、是れ豈に矛盾にあらずや……此輩  一面に於ては則ち非雑居を唱ふ、盖し外に対して無遠慮の挙動を為せよと勧告するは  日本の実力実に諸外国と競争するに足るものあるを信ずるが故なり、而して非雑居と  は何ぞや、日本人を以て外人と競争するの実力なきものと為すなり、日本人を以て外  国人より劣れるものとなすなり……日本を以て神州と為し、日本人を以て勇敢の民と  為し、日本男子、日本魂云々とて常に傲然として自ら高ふるものは所謂国粋派なり、  而して一たび条約問題に及ぶときは則ち萎縮し、日本人は到底外人の敵にあらず、俄  かに国を開て外人を誘はゞ日本の産業は外人に奪はれん、日本人は外人の使役者とな  り、奴隷と為らんと云ふ、前には自尊後ちには自卑、是れ豈に矛盾にあらずや
   [朝野、1893]
 
 朝野新聞の記事は、内地雑居反対論における「自尊」と「自卑」との間にある「矛盾」をついているが、この矛盾こそ1890年代における日本の対外意識の態様そのものを表現しているのであり、両者の葛藤の中に当時の国民意識の形成が行われたものと考える。この両面性は、内地雑居反対論者の間だけではなく、賛成論者の中にもあったとみられる。それは、第一章で触れた(p.17)外国人に対する「拝・排外」意識に対応するものであり、いずれも、その基盤にあるものは外国を異質視することに基づいた排斥意識であると考える。いいかえれば、「拝外」と「排外」意識はそれぞれ全く無関係なものとしてあったのではなく、外国に対する排斥意識という基盤の上に、「排外」意識とともに、その対極である「拝外」意識があったと考える。このように考えるならば、支那人問題における排外意識と欧米人に対する崇拝意識ないし、その逆転したものとしての排外意識は、ともに外国排斥意識の表れとして理解することができる。これらふたつの、たがいに相反する意識の並存と両者間の対立こそが、19世紀後半期における日本の対外意識の有する特質であったと考えるものである。
 
<h3>五 支那人との雑居問題</h3>
 
 内地雑居論争を通じて一貫して表れる争点のひとつが支那人との雑居問題であり、支那人に対する差別意識は賛否両論に共通している。第一章でも触れたように、筆者は近代日本人の対外意識を大きく制約している枠組のひとつが、支那人・朝鮮人に対する差別意識であると考えている。
 支那人という「外国人」に対する近代日本における対外意識を考察する上で、第一章で述べた取り込み概念に基づいて、「アジア取り込み」という枠組を想定することとしたい。従来の「脱亜入欧」的枠組は、いわば西欧を中心とした見方に基づくものであり、欧亜の関係は上下あるいは優劣関係でとらえられている。これに対して、内地雑居論争を通じて見えてくる明治期日本における対外意識の基本は、「脱亜」即ちアジアから脱するというよりはむしろ、未開地域とされたアジアを取り込むことによる、日本の国際関係秩序への編入にあったと考えられる。このような観点から、本節では主として支那人に対する蔑視意識と台湾の取り込み過程に関連した内地雑居論争を取り上げることにする。
 
(1) 日清戦争以前
 1884年に発行された林房太郎の『内地雑居評論』は、支那人問題に関する当時の新聞論調を伝えている。それらの中から支那人との雑居に関する賛否両論を引用することによって、明治10年代における対外意識の一端を浮き彫りにすることを試みる。
 支那人との雑居を肯定する論者は、内地雑居後においても支那人が大挙して押し寄せることはないとし、反対論者は彼等が集団移住して来るとして、その脅威を基に支那人との雑居を否定する。後者において、支那人は常に集団としてとらえられている。
 
   米国に移住したる支那人は低廉の賃銀を以て労役を売るものなれば却て米国を利す  るものなり米民の之を嫌ふは不埒千万なり支那人若し我国に移住すれば是れ亦我国を  利するものなり且つ我国には傭工に乏しからざれは支那人の移住も米国に於けるが如  く多からず随て内地の職業を奪ふの恐れなし又是迄支那人の移住したる国を見るも彼  輩の悪習を伝染したるの痕跡なけれは支那人の入来は亳も意とするに足らず (28)
      [自由、1884]
 
   支那人は数百年来の習慣として諸方へ移住し汚穢を厭はず労役を辞せず然かも破廉  恥の者多くして米国抔にては既に之を持て余まし居る有様なれば其支那国と一葦水を  隔つる我日本を開て入来勝手次第なりと云はゝ支那人群来して内地に深入し職業を奪  ひ悪習を伝え殆んど制す可からざるの勢を成すの恐あれは支那人に内地雑居を許すは  如何のものにや(29) [時事、1884]
 
 1890年代における日本内地の在留外国人は約1万人であり、その約6割は支那人であった。支那人との雑居問題が、内地雑居論争において常に争点のひとつとなった背景には、米国等における支那人排斥運動の影響があったとともに、全体としてまだ少数だったとはいえ、
在留外国人の過半数を占める彼等の存在と、その経済的・社会的影響があったのである。長崎は「支那人の長崎」(30)と称されるほどであったし、神戸、大阪、横浜の商権は彼等の配下にあったという。なお、統計上は、在留朝鮮人は僅かしかいなかったようである。
 上に掲げた自由新聞は支那人との雑居を肯定しているが、それに続く箇所では支那人との雑婚を否定しており、当時の支那人に対する意識を反映していると考えられる(31)。この記事では、欧米人のみならず支那人との混住を認めているにも拘らず、優等人種とされた欧米人との民族的混合は許しても、劣等人種とされた支那人との人種的混合は許さないのである。自由新聞の記事には別に、上海と東京における商業活動を比較している箇所があり、上海における商業サービスの質を東京のそれよりも高く評価している。現在との比較上興味深いので、注記しておく(32)。
 
    支那人の雑居は日本人種の血脈を汚すの一事是なり……優等人種と雑婚すれば血統  遺伝の理に由て次第に其体質心性を改造することは疑を容れず然るに今支那人は其体  質心性に於て一得一失ありと雖とも世界文明の人種としては決して上級に位すること  を得ず [自由、1884]
 
 支那人に対する蔑視意識は持っていても、法理論上他の外国人に内地雑居を認めて、支那人だけに認めないことはできないとする論も多い。一例として、坂本則美の『実力政策』から引用する(33)。原敬は、同じく国際公法上の観点から、支那人に対する差別的待遇を否定しているが、これは注に記す(34)。
   我邦西方一葦帯水の前岸を看よ賎業特得屈辱堅忍唯銭是れ索めて更に他を省みす為  めに名を世界に知られたる支那人の群をなすものあるにあらすや……彼れ支那人は其  所得の銭を故国に持帰るを以て得意とするものなれは我国経済に害あること殊に甚し  からん……清国は我国の為めには最近隣好の国なり豈其国人を放逐するか如きことを  なし得へきものならんや殊に其放逐せんとするは全外国人にはあらすして他の諸外国  人は之を依然と雑居せしめなから支那人に限り之を放逐せんとは理に於て決して云ふ  を得へきものにあらす [坂本、1890]
 
 人見一太郎にあっては、支那人に対する蔑視意識は坂本の場合と共通するが、その蔑視意識に基づいて、内地雑居後も支那人を居留地に制限すべきだとする(35)。人見の場合、「両国の平和」を守り、白人種に対抗して「両人種の調和を護持する」ためという理由によって、いわば日本人と支那人との間の摩擦回避のために支那人との雑居を否定し、居留地制度の維持を正当化しようとしている。
 
   支那に限りては、現今の如く、居留地制度を維持し、支那人をして、内地に侵入す  ることなからしめは、二十世紀人種の大移動に対して提携すへき支那人種と日本人種  と内地に於て、衝突を生するの憂なく、永遠の平和彼等の上に宿らん、然らは、支那  人に向ては、内地雑居を許るさゝるを以て得策ならんと思はるゝなり、是れ必すしも  支那人を軽んするにあらす、両国の平和、両厨種即ち白皙人に対して、共同の運動を  為すへき両人種の調和を護持する所以実に此に在りと信すれはなり [人見、1893]
 
(2) 日清戦争以後
 条約実施研究会第二回会合(1897年10月)では、支那人問題に関して田口卯吉が報告を行い、それに関して参加者との間に討論が交わされているが、日本の版図に加わった台湾に関する情報がもたらされており、支那人に対する観察もきわめて具体的である。以下に引用するのは、報告者田口の発言である。ここで注目されるのは、日本の下等社会と支那人の上等社会との比較であり、上等・下等社会の区別を支那社会に適用していることである。日本と支那の最下層社会の比較も見られるが、これは注に記す(36)。
 
   多数の人が雑居しまする時になりますと云ふと日本人よりも尚ほ開化しない衛生と  か云ふやうなことも劣等な者が沢山混って住ひますると内地の日本人に感染せしむる  憂はないか……支那人などは能く新聞で見ると博奕を打ったり、阿片を飲んだりする  ことがあるが、夫をよせと云ふと死ぬと云ふことで仕方がないと云ふことを聞きまし  たが、一例で言へばさう云ふ様なことを此善良なる日本人に及ぼしやーしまいか(37)
   ……台湾あたりは支那人の中でも実際は宜い人種でありまして又少し清潔の種類が  あらうと思ひます、支那人の下等なるのに至っては不潔なので実に驚く、夫は実に困  ります、併ながら横浜の居留地あたりに居る所の支那人は少し宜い方の種類を言へば  日本の下等社会よりは余ほど宜いと言はなければならぬ……博奕を禁ずると云ふのは  下等社会のやる博奕を禁ずるので、上等社会の博奕は左ほどでないから博奕の種類を  区別しなければならぬ騒になる(38) [田口、1897]
 支那人問題に関連して、日清戦争の結果が内地雑居論争に及ぼした影響について触れなければならない。戦争の結果、日本が清国に対する一方的な治外法権を獲得したことに伴って、日本内地における支那人の法的地位がきわめて不安定なものになった。また、1899年からの内地雑居実施に関連して、台湾への適用方法が新たな問題として浮上した。この間の事情を伝える記事を原敬の『新条約実施準備』から引用する。ここに明らかなように、戦争前に日清間に存在した二国間条約は、条約改正のための最大の障害のひとつとして考えられていたのである。歴史上の仮定を想定することは許されないであろうが、仮に日清戦争において日本が敗戦していたとすれば、その後の日本とアジア各国との関係は全く異なった様相を持つに至ったであろうと考える。近代日本の対外意識形成の上で、日清戦争の持った意味はきわめて大きかったのであり、それは日本と中国との関係にとどまらず、朝鮮を含むアジア地域に対する国民意識を大きく制約したのである。
 
   日清戦争の結果として、日清間に存在せし条約は悉く破棄せられて全く無条約国と  なり、更らに戦争の余威によりて条約を締結したれは、多年困難を感じて殆んど着手  するに困しみたる日清条約はモハヤ改正するの必要なく、而して其新たに締結したる  条約は、清国に対して締盟各国と同等の位地に立つを得たるのみならず、或点に於て  は締盟各国の権利々益よりも優る所多く、昔時遥かに彼等締盟各国の下に在りたる我  は却て彼等締盟各国をして我に均霑せしむるに至れり、此結果として我は清国に於て  治外法権を有すれども、彼れは日本国内に於て治外法権を有せず我国内に於ける清国  の権利々益に関しては条約中に規定なく、全く我国の意思のまゝに支那人を支配し得  ることゝなれり(39)
   ……結局我国内に居住する支那人は其権利として有する特権もなければ特恵もなし、  彼等支那人の生命財産は皆な我法律命令の下に其安全を保つべきものにして、此点に  於ては欧米各国に於て支那人を支配すると亳も異る所なければ、米国若くは或る英領  殖民地に於けるが如く、支那人を排斥せんと欲すれば之を排斥することを為し得べし、  之を寛容せんと欲すれば亦之を寛容することをも為し得べし、之を排斥するも之を寛  容するも皆な我国の意思如何に存して、清国は容喙の権利なし(40) [原、1898]
 
 上述のような法理論上の認識に基づきながら、原は支那人との雑居に対する世論の否定的風潮を批判している。彼は、支那人問題について、労働、経済、風俗問題に分けて、詳細に論じた記事を大阪毎日新聞紙上に1897年末から翌年1月にかけて連載し、世論の非を説いているが、その一部を以下に掲げる(41)。ちなみに、原は「でたらめ」という記者名で、内地雑居実施に伴う準備心得・マナー集を同じ新聞紙上に連載している。これらの記事は
翌年に単行本として出版されており、内地雑居準備期の出版ブームの一角にあって、一般庶民層を対象に生活慣習やマナーの欧風化を勧めている。
 
   日清条約改正に困難を感じたる当時より今日に至るまで世人の意向を察するに、意  外にも多数の人々は支那人排斥に傾き居るものゝ如し、今日に至りては無論当時に比  して多少の変化なきには非ざれども、当時に在りては治外法権を撤去して支那人を我  法権の下に服従せしむるも、支那人をして内地に雑居せしむるを欲せずと云ふは慥か  に多数の意見なりしが如し、而して此意向は今日に至りても未だ全く消滅せざるもの
  の如く、或る一部の論者は今猶ほ之を唱道しつゝあるを見るなり……若し国家の安寧  を保持し又は風俗の頽敗を防止するが如き、国家生存に必要なるものあらんには、外  国人の排斥も又其自由の拘束も皆な巳むを得ざることなるが故に、若し此等の必要あ  りとせば吾輩も亦支那人の排斥若くは其自由の拘束に同意せざるに非らずと雖ども、  吾輩は亳も其必要を発見せざるのみならず、却て世上の議論は大概根拠なき僻論なる  ことを覚ゆるものなり [原、1898]
 
 佐藤宏は現行条約励行論者であり、内地雑居問題に関して、原とは立場を異にする。台湾における外国人の土地所有問題に関しては、日本による領有以前の台湾において外国人の土地所有が認められていたとする原の見解を批判しているが、支那人の法的処遇に関する見解は、原と同一であるといってよい。ただ、次の文章にも表れているように、佐藤の支那人・朝鮮人に対する蔑視意識はかなり強いものであった。日清戦争後、日本人一般の間に支那人・朝鮮人に対する差別意識が固定化しつつあったことを窺わせる(42)。
 
   支那人が我邦に於ける権利に就ては条約上何等の担保なし。故に条約実施後、彼等  を如何に待遇す可きやは、朝鮮人に対すると同じく、全然我邦の自由意思を以て之を
  決する事を得べし……去れど支那人とても禽獣虫魚に非ず、吾人と同様の人類たり。  而かも我とは三千年来切るに切られぬ歴史的の関係を有し其積弱、衰頽、分割、滅亡  は我等に少からざる影響を有する隣国の人民なれば、国際法の原則に典り、それ相応  の待遇を付与せん事を吾人は熱望して巳まざるなり [佐藤、1899]
 
 1899年の新条約は、日本国内のみならず、日清戦争の結果日本の領土となった台湾にも適用され、内地雑居制度は台湾にも施行されることになった。内地雑居について考察する場合、領域概念としてだけではなく、対外意識の枠組としての「内地」が持つ意味に十分留意しなければならない所以である。台湾における新条約の施行に関連して、同じく『新条約実施準備』から引用する(43)。この中で、原は法律の施行対象を台湾在住の外国人ならびに日本人から始めて、日本人と外国人との間の問題、日本人・外国人と支那人との間の問題、支那人、生蕃人へと次第に拡張していくべきだと論じている。ここに、条約上の不平等関係と、その背後にある人種的差別構造が浮び上がって来るように思われる。
 
   新条約は台湾にも施行せらるべきものなり、新条約実施の条件たる法典実施は新条  約実施以前に万一台湾に実施せられざるも新条約実施の妨げとならざるものなり……  琉球諸島の如きは当時に於ても其まゝ実施せらるゝを得ざるの事情ありしに非らずや、  此等の事情より推考するも全版図中の一部に法典を実施せざる地方あるも、締盟各国  は新条約実施の通知に対して故障なきこと明かなるべし……事情之を許すに於ては、  先以て法典の全部を台湾に在住する外国人、内国人并に内外国人の間及び内外国人と  土人(支那人)との間に実施すべし、而して漸次其歩を進め法典の一部又は全部を土  人に実施し、遂に生蕃人にも法典を実施し得るの時期に達せんことを要するものなり
   [原、1898]
 
(3) 朝鮮人問題
 本節の最後に、朝鮮人に関する対外意識について、若干触れておくことにする。というのも、明治期日本における支那人に対する差別意識は、朝鮮人に対するそれと重なり合う部分が多く、彼等に対する日本人の意識を通して、近代日本における対外意識の態様を検証することができると考えるからである。この意味において、内地雑居論にまさる歴史的論争はないであろう。論争が近代日本の対外意識の形成期を通じて長期間続いたこと、また内地雑居という争点が、日本人の生活ならびに日本社会にとって歴史的、文化的に深く関わる問題だったからである。以下、日本の「内地化」過程における対外意識形成の根幹に関わる朝鮮人に関する原と佐藤の文章を、やや長文ながら引用する。
 
    朝鮮人ほど我国内に於て自由を得たる人民なし、無論に其自由は我国の単独の意思  によりて許与したるものにして、彼等は条約上に得たる権利に非らざれば之を主張す  ることを得ずと雖ども、今日に至るまで朝鮮人は何れの地に居住するも如何なる業務  を営むも亳も拘束を受ることなし、朝鮮人の我国内に於ける権利々益は以上記するが  如く条約上に担保せられたるものに非ざれば、我に於て彼等を現今の如く寛容せざる  を得ざるの義務なしと雖ども今日まで此の如く寛容し来りたる所以のものは、云ふま  でもなく朝鮮を扶植して開明に導かんとの最初の主旨を始終貫通したるものなり……
  幸に朝鮮人に対する我国人の意向に於ては、支那人に対するが如き感情を有せざるの  みならず、現に各地に雑居するも別に異議の生じたることもなく、今日に於ては僅少  なりとは云へ既に朝鮮労働者をも使用し居る所あるほどなれば新条約実施後に於ても  此情況を変更するの必要なし、加ふるに朝鮮人は其性情に於て多少の欠点なしとなさ  ざれども、支那人の如き悪習もなく又他の蛮民の如き弊風もなく、就中法律命令の眼  より之を見れば、其従順なること殆んど比類なき人民なれば、条約実施後に至るも我  法律命令に於て他の外国人に与ふる総ての権利々益を与ふるに於て何等の支障なかる  べし(44) [原、1898]
 
   朝鮮と我邦との関係は自余の締盟国との間柄と異り、始終彼の独立扶植てふ義侠的  の歴史を有するなり。夫の明治九年我邦が江華条約を締結して清国の彼を藩属視する  の迷夢を破り、其自主の邦たる事を承認せしより、日清戦争に於て我は彼が為に闘ひ  幾万の生霊と幾億の軍費とを惜まざりしに至るまで、一として附庸国の境遇より彼を  脱せしめて独立国たるの域に達せしめんと欲するの精神に非ざるはなし……新条約実  施後、朝鮮人を如何に待遇す可きや。是れ本邦人の歯牙にだに懸けざる問題なり。唯  だ従前の如く相変らずに待遇し置けば則ち可なりと思惟するが如し。実は斯の如く本  邦人が朝鮮人を見くびる程度を以て。碧眼赤髯の外国人に相対するに至らざれば、内  地雑居も覚束なきなり。彼の往来に何処の馬の骨やら牛の骨やら分らぬ外国人が歩み  居たればとて、物見高くも、女子供、果ては有髯洋服の男まで一小隊斗りも其後に跟  き行く様の見苦しさよ。(45) [佐藤、1899]
 
 原と佐藤に共通しているのは、条約上何等権利を持たない朝鮮人に対して、日本が寛大な政策を施しているとして、いかにも恩着せがましい態度をとっていることである。日本は、朝鮮に対して初めから上下・優劣関係において絶対的優位に立っているのである。だから「朝鮮を扶植して開明に導」いてあげるのであり、「彼の独立扶植てふ義侠的の歴史」観によって、差別的態度が正当化されるのである。また、原は朝鮮人を「其従順なること殆んど比類なき人民」と評しているが、この見方は、その後の日本による朝鮮の植民地化への過程を考えると、不気味なものさえ感じさせる。
 原は、前頁の引用文の中で、日本人の朝鮮人に対する意識について、支那人に対するような差別的「感情」を持っていないとしているが、この文章に第一章で引用した大倉の寄稿文(p.13)を重ねてみる時、両者の朝鮮民族に対する対外意識の基底には、当然日本によって支配されるべき劣等民族だとする根元的蔑視があったと考えられるのである。他方、佐藤は「朝鮮人を見くびる程度」をもって欧米人に接触しなければ内地雑居もできないとし、欧米人に対しても朝鮮人に対するのと同様に、劣等視する態度をとるべきだとする。庶民層における欧米人に対する好奇心を嘲笑する彼の対外意識の基底にあったものは、欧米・非欧米を問わず、外国人全般に対する排斥感情であったとしか考えられないのである。欧米人と支那人・朝鮮人に対してそれぞれ劣等感と優等感という相異なる対外意識を持っているように見えるが、いずれの場合も各々の意識枠組を形作っているものは優劣・上下関係であり、決してヨコ並びの対等な関係ではなかったと考えられる。
 
  以上述べたような明治期日本人の対外意識における民族的偏見は、内地雑居論争を通じて国民意識の中に確実に浸透していったものと考える。このような国民意識の枠組をさして、本節の初めに「アジア取り込み」という用語を用いたのであるが、それは第一章で用いた「内地化」と同質のものである。欧米に対する拝・排外意識とは異なった態様ではあるが、近代化過程において日本に立ち遅れた、支那・朝鮮に代表されるアジア地域の国々に対しては、排外意識の変形である差別ないし蔑視意識を介することによって、日本の階層的な対外意識の枠組の中に取り込んでいったのである。欧米諸国に対する排外意識が、崇拝あるいはその反面としての劣等意識だったとするならば、アジア地域諸国に対する排外意識は、相手側を蔑視し、自分より下位に置かれた劣等者として見下すことを通じた、開化先進国として自認していた日本による、後進国とみなされた地域の「取り込み」という形をとったと考えるものである。
 
 
第二章注
 (1) 西 周 「内地旅行」『明六雑誌』23号 明六社 1874年12月
   内地旅行と云う一事実は好和開交と云ふ全体の内の一分好和開交が主意なれば内地  旅行も許さねばならぬと云ふことは明白でござる……好和開交と云ふ軌道があると云  った通り其軌道をなす曲線は内地旅行と云ふ唯一つの曲線とばっかり限りたことでは  ない。
 (2) 福沢諭吉 「内地旅行西先生の説を駁す」 前掲書 26号 1875年1月
   開港以来今日までの有様を損亡の一部分と為して推して後日の全体を求むれば損亡  の全環を得可きなり……従前の交際に由て現に我国の富を失ひながら尚外人の旅行を  許して其交際を広くせんとするは損亡の一部分を推して其全環を成すの道を促すに異  ならず何となれば旅行は雑居の調練なり雑居は商売の方便なり商売は損亡の源なれば  なり。
 (3) 福沢諭吉立案・中上川彦次郎筆記 『通俗外交論』 1884年 p.33-34
 (4) 南 博 『日本人論』 岩波書店 1994年 p.15-22
 (5) ロエスレル稿 『内地雑居論』 1879年
 (6)「内地雑居の喜憂」1884年2月20日 時事新報 林房太郎『内地雑居評論』1884年 p.37
 (7) 林房太郎 前掲書 p.78-79 朝野新聞「団結の危害」1884年3月1日
 (8) 人見一太郎 『国民的大問題』 民友社 1893年 p.49
 (9) 坂本則美 『実力政策』 本来堂出版 1890年 p.60-61
(10) 田口卯吉 『居留地制度と内地雑居』 経済雑誌社 1893年 p.6
   現今我邦の事情は実に内地雑居なり、外国人に対して我内地の如何なる地に旅行せ  んとするも、如何なる地に住居せんとするも実に勝手次第なり、今若し内地雑居を許  すも之より更に便利を与ふることなし
(11) 鈴木僧隆 『雑居危言』 藤井潤導発行 1893年 p.65
     現存条約は、治外法権にして狭隘なる居留地制度なるにも拘はらず、伝教師の権は  無制限にして、内地横行の特権を有するにあらずや
(12) 人見一太郎 前掲書 p.198-200
(13) 高橋自恃 『朝日叢書 内地雑居論』 大阪朝日新聞社 1893年 p.25-26
   夫れ[神戸]居留地狭隘なり、乃ち之を拡張する或は可なり、条約文の墨痕未だ乾か  ざる慶応の末年に在りて条約の許さゞる雑居を許して以て自ら条約違反の端を開く…  …此雑居の取極は雑居の起原なると与に条約違反の起原なり
(14) 朝比奈知泉 『東京日日新聞文庫 条約励行論』 日報社 1894年 p.22-23
(15) 陸羯南 『日本叢書 外権内侵録』 佐々木正綱発行 1894年 p.33-34
(16) 坂本則美 前掲書 p.16-17
(17) 原 敬 『現行条約意見 第二』 商務省部内資料 1891年 p.86-87
(18) 中西牛郎 『内地雑居と仏教の関係』 駸々堂 1894年 p.27-28
(19) 鈴木僧隆 前掲書 p.77-78
(20) 高橋自恃 前掲書 p.70-71
(21) 高橋自恃 前掲書 p.58
(22) 桐村覚豊編 『国家的大問題・雑居非雑居』 興文堂 1894年
   時事新報 1893年10月12日 [其責に任ずるものある可し]
   近来世間の人気何となく外人を嫌ふの風に傾き非内地雑居の説杯が漸く勢力を得ん  とするに立至りたる其原因を尋ぬれば我輩は之を以て政府が明治十四五年の頃に当り  頻りに儒教主義を奨励したるの結果に帰せざるを得ず……三四年来世間に守旧の風を  催ほし非内地雑居論など唱ふるものゝ現はれたるは十四五年の頃、当局者が無理強い  に酒を飲ましめたる酔いの次第に発したるものにして今正に狂乱の最中にあることな  り今の政府の中には必ず其責に任ずるもののある可し。 p.185-186
  時事新報 1893年10月31日 [非内地雑居に反対の運動は如何]
   抑も斯る議論の本来を尋れば三十年前に行はれたる攘夷鎖国論の変形にして兎に角  に外国の人を忌み怖れて之を遠ざけんとするの気風より発生したるものなれば此種の  議論をして次第に流行して次第に勢力を得せしむるときは仮令ひ攘夷の極端に陥らざ  るも一般の人心を刺衝して調和の風を失ひ益もなき事に外国人の感情を損して事の実  際に害なきを保し難し世間の空論決して軽々に看過す可らざるなり。 p.188-189
(23) 田口卯吉 前掲書 p.1
(24) 高橋自恃 前掲書 p.77
(25) 原 敬 『新条約実施準備』 大阪毎日新聞社 1898年 p.92
(26) 桐村覚豊 前掲書 p.41-42
(27) 桐村覚豊 前掲書 p.21-23 朝野新聞 1893年11月16日 [矛盾]
(28) 林房太郎 前掲書 p.85 自由新聞
(29) 林房太郎 前掲書 p.86 時事新報
(30) 人見一太郎 前掲書 p.228
(31) 林房太郎 前掲書 p.100-101 自由新聞  
(32) 林房太郎 前掲書 p.97 自由新聞  
    在上海人の話に上海の支那商店にて品物を売ると東京の商人か品物を売るとは丸で   其趣を殊にし支那人の能く媚を献して買客の機嫌を取る其有様を見て東京の商人に接  すれば巧拙判然思わず東京人の疎漫不注意なるに驚く程にて香港の英商も目下既に支  那商人に圧倒され商売の事に至りては支那人に向いて降旗を樹つるの様子なりと斯か  る支那人か来て内地に行商せんとせば決して其生活に困しむことなし内地雑居の其後  に支那人の来住夥多なる可きは我輩甚た利ありと信す
(33) 坂本則美 前掲書 p.34-35
(34) 原 敬 『現行条約意見 第二』 商務省部内文書 1891年 p.105
   其支那人の来住を恐るゝ如きに至りては多少忌むへきの事情あるにせよ畢竟過慮の  甚しきものと謂ふへし米国か支那人を放逐せし如き公法の異議を免かれすと雖とも今  暫らく公法の理論を措き単に我国情より之を見るも支那人の来住は決して恐るへきも  のには非さるなり況んや治外法権を撤去して主権国の権利を全ふせんと欲するに於て  おや……清国に対して特に我権利を害し及ひ公法と慣例とに戻ることを得へしとの論  理は如何なる講究を以てするも発見することを得さるなり其内地開放に関する種々の  異論概ね此類のものに過きす一も開放を妨くるの根拠あることなし
(35) 人見一太郎 前掲書 p.230
(36) 『条約実施研究会速記録』 辻治太郎発行 1898年 p.97
   台湾などで私が実地に就て見ると最下等の支那人の生活は日本の最下等の生活より  は確に上と思ひます、余程低い所の労力者でも一日に一遍は肉を食はぬ者は無い、豚  を食うとか、鶏を食うとか、又は家鴨を食うとか、肉は必ず食ひます、さうして飯の  方は寧ろ副食のやうな工合である……然るに日本の最下等の労力者であれば飯と夫か  ら香物、朝は汁位であって其生活の度は支那の最下等の人民が耐え得ない所でありま  す……食の一点に於ては支那人の方が確に高いと私は思ひます[発言者 伊澤]
(37) 条約実施研究会 前掲書 p.77
(38) 条約実施研究会 前掲書 p.81
(39) 原 敬 『新条約実施準備』 大阪毎日新聞社 1898年 p.52-53
(40) 原 敬 前掲書 p.55
(41) 原 敬 前掲書 p.56-57
(42) 佐藤宏 『日本叢書 新条約実施論及其善後策』上巻 日本新聞社 1899年 p.154-155
(43) 原 敬 前掲書 p.94-95
(44) 原 敬 前掲書 p.62-64
(45) 佐藤宏 前掲書 p.149-151
<h2>第三章 内地雑居の現代的意義</h2>
 
<h3>一 雑居に関する「既知数」
</h3>
 
 19世紀後半期の日本において、内地雑居論における「雑居」概念は、どのように理解されていたのだろうか。内外人雑居という、当時の日本人にとっての「未知数」を把握するために、どんな「既知数」(1)が用意されていたのだろうか。この問いに答えるためには、丸山眞男のいう思想的な先行枠組としての「既知数」について考察しなければならないが、ここでは思想的な問題に立ち入ることはせずに、歴史的な先行形態としての「雑居」について触れるだけにとどめる。日本国語大辞典(第9巻、小学館、1974年)「雑居」の項には以下の記述ならびに引用例があり、[3]の用例として福沢諭吉の『文明論之概略』ならびに田口卯吉の『条約改正論』を引用している。内地雑居論における「雑居」は用例[3]に該当するが、雑居の伝統的な用例としての歴史的な先行概念は、用例[2]の『太平記』の文例に類似するものであったと考えられる。
 
  [1] ちがうものがいりまじっていること。別のものがまじること。
[2] 種々の人が一つの場所にいること、また、まじり合って住むこと。一つの家の内に    何家族もが住むこと。「見物の者と云は、洛中の地下人、商売の輩共也。其に日本一    州を治め給ふ貴人達交り雑居し給へは」『太平記』二七 雲景未来記事;「ザッコ。または
zacqio(ザッキョ)。マジワリイル」『日葡辞書』;「常に志なき諸人と共に雑居し、少き時と
雖ども、十人に減ぜず」中村正直『西国立志編』
  [3] 異人種どうし、また、国内外の人どうしが入りまじって生活していること。
 
 田口卯吉は、1893年発行の『居留地制度と内地雑居』の中で、徳川時代の江戸における各藩邸の「割居」を居留地制度に比定し、それが維新後「雑居」に替わったとみなしている。この用例では、東京市内の各地方人町ならびに地方商業集団の混住形態が、「雑居」に関する先行形態の役割を果たしていたものと理解される。
 
   我東京に京町あり、堺町あり、大阪屋あり、越後屋あり、其他各地の人来りて雑居し逐に今日の東京市民を発成したるが如し、徳川氏の時江戸中に諸国の藩邸あり、各藩の士民皆な其中に住して割居せしこと恰も現時の居留地の如し……維新の後諸国の士民皆な市中に雑居し、朝夕相対し、吉凶相慶吊し、火災相救ひ水旱相憐み婚姻相結ぶ、是に於て乎諸国の寄留人皆な自治制の下に於て市政に参与し、亳も弊害を見ることなし、外国人の東京市内に雑居するも何ぞ之に異ならんや(2)
   ……内地雑居を許したる結果は、従来居留地に団結したる外人が東京及び其他の都  会に点々散在するに止まることなり、彼の京都人が来りて京町を為し、堺人が来りて堺町を為し、ロムバルド人か移りてロムバルド町を為しゝ如く、我銀座辺にも刺賀商会高田商会の如きもの多く集合すべし、彼の支那人が桑港に於て支那町を為すを見れば徃々は彼等も一町を為すへきなり(3) [田口、1893]
 丸山の「開国」論文では、「国際社会の認識=列強対峙のイメージ」に対する「既知数」として「日本の国内における大名分国制からの連想」があり、「国際法的観念の受容=具体的政策としての開国を正当化する仕方」に対する「既知数」として「儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させること」があったとしている(4)。
 では、内地雑居論において、治外法権はどのような「既知数」を手がかりとして理解されていたのだろうか。福沢は、幕藩体制下において各藩の間に行われていた犯罪人の相互引渡し制度からの類推によって、幕末期の外交当事者が治外法権を理解したものと考えている(5)。彼は幕府と西欧列国との間に治外法権を必要悪として認めており、朝鮮や安南に対する治外法権の必要性をいうのである(6)。一方で、彼は税権の確立が独立国家にとって不可欠のものであることを力説しているが、これは注に記した(7)。
 
   畢竟するに数百年来の習慣は恐ろしきものにて治外法権を左程の事と思はず例の犯  罪人を双方の政府に引渡すことか成る程日本の藩々の振り合ひによくも似たり西洋に  も亦偶法あるもの哉とて少しも之に心を留めず(5) [福沢、1884]
 
〈伝統的な雑居概念〉
 1884年2月の東京横浜毎日新聞の記事「内地雑居論 其四」(8)は、日本が歴史的に中国・朝鮮から多くの技術者移民を受け入れたことに触れており、日本における伝統的な雑居概念とでもいうべき観念が存在していたことが知られる。内地雑居論に関連して、日本の古代史について多民族的な歴史観を持っていた論客のひとりに田口卯吉がおり、後に引用する朝比奈知泉の説とも共通する、古代日本史の「雑居的」解釈とでもいうべき考え方を認めることができる。ちなみに、田口の以下の文章は、井上哲次郎の『内地雑居論』(9)に対して、内地雑居肯定の立場から反論を行ったものであり、内地雑居反対論者であった井上自身を「帰化」人の子孫に比定している。これに対して、井上は『内地雑居続論』において田口説を反駁している(10)。
 
     我邦古代にありては秦漢の人は帰化し紡織文芸を伝へ、韓人は帰化して建築、彫刻、絵画等の技を伝へ、終に能く我奈良朝及ひ平安朝の文化を発育せり、若し此事なかりせば、我邦は今なほ依然たる蒙昧の邦ならんのみ、当今非内地雑居論を主張するもの多くは此際我邦に帰化し内地に雑居したるものゝ子孫なり(11)
     ……今や血脈混淆して内外を判別すべからずと雖も、蕃別の姓氏依然存在するは以て支那朝鮮の血脈我邦人の間に存する明証とすべき也、抑も我王朝の昔弘く外国の人民を容れ玉ひて之を高官に任じ、之に土地を給し、互に雑婚を許し玉ひ、後宮女御さへも蕃別の女を納れ玉ひしこと実に少なからざりき(12) [田口、1893]
 
 朝比奈知泉もまた、以下に引用するとおり、日本が過去の歴史において他民族を「同化」することによって発展してきたとしている。前掲の田口説とともに、古代史において中国・朝鮮からの文化的ならびに技術的な刺激を受けることによって、日本が発展してきたという認識はある程度普及していたようである。ちなみに、井上の『内地雑居論』は必ずしも単一民族説をとっているとは考えられない。拙論の範囲を越えるテーマではあるが、当時のいわば「雑居的」日本人種意識ないし歴史観と、現代日本人の間で一般化しているようにみえる「単一民族」意識との関係が、どのように連続し、断絶しているかを考えさせる興味深い問題である。
 
   本邦の外交に於ける古来其幾変遷なるを知らず然れども王朝の盛時に於ては曾て開国進取の大計に依らざりしものあらずや隋、唐、任那、高麗、百済、新羅、粛愼、靺鞨に論なく其文芸を師とし其技術を取り其宗教を信じ其民人を容れ以て我に同化せしめ以て我文化を助けしめたるもの史乗の載する所昭々然疑ふべからず未だ外人を容れ外長を採りたるが為に国家の存立を危くし社会の淆乱を醸したることあらず(13)
   [朝比奈、1894]
 
<h3>二 内地雑居問題の持つ普遍性
</h3>
 
 近代日本における対外意識の形成過程の一端を、内地雑居論争の展開の中に見ることが、本研究の意図するところであった。拙論において、それが十分に達せられていないとしても、「内地雑居」という現代では既に死語と化した用語が、かつて19世紀後半期に持っていた意味内容の一部は提示することができたものと考える。
 本論の主旨は、近代日本が鎖国から開国に転じたのは、決して西欧世界に対してだけではないということであり、同時に東アジア地域を含む全世界に対して開国したという歴史的事実を、内地雑居論争を通じて確認することにあった。考えてみれば当然のことではあるが、開国というともっぱら西欧世界との関係について考える傾向が日本人の間にあり、非西欧世界は視野の外に置かれることが多かったといわざるを得ない。この傾向は、現在においても基本的には変わっていないと考える。
 ところが、内地雑居という観点から見ると、第二章の5.で述べたように、欧米人と同じく中国人・朝鮮人との雑居を考えざるを得ない。それは、決して彼等が欧米人と同等に扱われたことを意味しないが、差別意識の有無はともかく、特定の集団と雑居して他の集団と雑居しないということは法理論上、また現実的にも難しいからである。この意味において、雑居という概念は本来的に上下関係ではなく、ヨコの関係に基づくものと考えられる。ヨコの関係が持つ無差別性ないし平等性があったからこそ、日本人の対外意識において上位にあった欧米諸国との雑居とともに、下位に置かれていた支那人との雑居問題が論議の対象となったのである。
 あるいはまた、雑居という問題が生活文化に直接関係するだけに、一種の普遍性を持っていたとも考えられる。この意味において、内地雑居論争は19世紀後半期を通じて国民的な議論となるための要因を持っていたのである。一般化が許されるならば、国際社会はいずれの地域、いつの時代にあっても「雑居化」の過程をたどってきたと考えられるのであり、今後とも「雑居化」していくことは必然だと考える。近代日本の場合、鎖国体制が崩れて開国の方針に転じた時点から、「雑居化」の歩みが始まったと考えられる。
 
<h3>三 「国際化」と内地雑居</h3>
 
 雑居という、本来無差別的な概念に基づくならば、「国際化」と「内地雑居」という、時間的には百年余を隔てた問題は、日本をとりまく国際情勢、欧米世界と日本との関係、20世紀前半における日本のアジア侵略という歴史的体験、ならびに国際社会における日本の地位等の点に関して単純な比較を許さない要因があるものの、基本的には同じく内国人と外国人との関係について論じており、日本の国民意識層における対外意識に深く関わる争点であるという共通項を持っていると考える。
 1980年代以降、「国際化」論議はとどまるところがないが、日本人の対外意識における枠組自体は、現在にあっても、本論で論じたような歴史的制約から脱していないように思われるし、将来においてその制約から自由になることも容易ではないと考える。たしかに、1980年代後半以降における中東・アジア地域からの外国人労働者の急増は日本国内の社会問題として取り上げられているし、東北地方を中心とする農村部にあってはアジア地域からの女性と日本人男性との民族的雑婚が、社会的問題をはらみながらも定着しつつあるようにみえる。これらの社会現象が現代日本社会における「雑居化」傾向の現代的側面を示していることは否定できないのだが、最近の外国人労働者問題に関する議論の多くが出入国管理政策をめぐる開国・鎖国論あるいは労働力という経済次元の問題に終始していることにみられるように、内地雑居論争の時期から一世紀余を経た現在においても、19世紀後半期と同じ意識枠組の中で論争を繰り返しているように思われる。現代の「国際化」論議は、むしろアジアにおける日本という側面が中心になっているとも考えられるが、たとえば外国人労働者問題に関する論調の多くは、あいかわらず欧米における事例を参考にしながら論じており、かつての内地雑居論争と同じく西欧中心の議論から脱していない。福沢の用語を借りるならば、開港以来ほぼ一世紀半を経て、物心両面における「国際化」が進んだといわれるものの、「人心の底」における対外意識が抜本的に変化したとは、考え難いのである。
 内地雑居論争と「国際化」論議のいずれにも共通し、それらを支えている対外意識の態様はどのようなものであろうか。それを筆者は、日本的排外主義とでもいうべき、幕末の攘夷論につらなる排外意識だと考える。外国に対する排斥意識があればこそ内地雑居論があったのであり、現在においてもなおかつ基本的な枠組としての排外意識が継続しているからこそ、内地雑居論争の当時から一世紀余を経た後にまた開国・鎖国論次元の国際化論議が起こり得るのである。いいかえれば、攘夷論に先鋭的な形で表れた排外思想が、開国論ないし内地雑居肯定論にとって替わられたのではなく、日本における排外主義の伝統は国民意識の下層にあって、今日に受け継がれているのではないか。このような形の排外主義はどこの民族あるいは国家にも潜在的、顕在的にあると考えるが、ここでは日本における排外主義が決して開国論あるいは内地雑居の実施とともに消滅したのではないという考えを述べておくこととしたい。
 
第三章注
 (1) 丸山眞男 「開国」『忠誠と反逆』 筑摩書房 1992年 p.174
 (2) 田口卯吉 『居留地制度と内地雑居』 経済雑誌社 1893年 p.9
 (3) 田口卯吉 前掲書 p.12-13  
 (4) 丸山眞男 前掲書 p.174-175
 (5) 福沢諭吉立案・中上川彦次郎筆記 『通俗外交論』 出版人 飯田平作 1884年 p.7
 (6) 福沢諭吉 前掲書 p.9-10
    安政年間の日本は今日の日本に非ず全国上も下も外国の人を嫌ふのみか之を暗殺
するものさへある世の中にて若しも外国人の身として日本に在留し日本の法律に従はん  抔条約面に記したらば何か双方の間に争論にても起るときには外国人は一も二もなく日本政府の手に掛りて其処分に任せざるを得ず時の法律と云へば徳川の御大法にして甚だ精密ならず加ふるに上下挙て異人を悪むの人情なれば或は役人の手心にて差したる罪もなき外国人を捕へて牢舎申付るなどの気遣なきに非ず……今日にても吾々が朝鮮又は安南などに行て其国法に従へば或は些細の不調法よりして生捕られ時として鈍刀もて首を切らるゝなどゝ聞いては先ず彼の地に在ても日本の法の蔭に身を置く可しと云ふことならん三十年前の西洋人が三十年前の日本を見るは正しく吾々が今日朝鮮安南を見るに異ならず治外法権も決して謂れなきに非ず
 (7) 福沢諭吉 前掲書 p.13
   我輩の最も不安心なりと思ふものを云へば外国の奸商等が我内国の税法を紊るの一  条なり……外国人が居留地を構へて治外法権の下に居るときは如何なる商業を営みて  如何なるものを売買するも税の沙汰に及ぶことある可らず居留地の外国人は馬車に乗  るも馬車税なし馬に跨るも馬税なし
 (8) 林房太郎編 『内地雑居評論』 出版人 林房太郎 1884年 p.70
   盖し他邦の移民によりて有要の業を国に開きたるは古来其例内外に乏しからさるな  り我国製革織綿の術の如きは韓呉の移民に創まりたりとの説あり
 (9) 井上哲次郎 「内地雑居論」『明治文化全集』第11巻 日本評論社 1928年 p.471-488
(10) 井上哲次郎 「内地雑居続論」 前掲書 p.491
(11) 田口卯吉 前掲書 p.5
(12) 田口卯吉 前掲書 p.23
(13) 朝比奈知泉 『東京日日新聞文庫・条約励行論』 日報社 1894年 p.6
 
参考文献:一次資料(一部、二次資料を含む)
 1. 朝比奈知泉 『東京日日新聞文庫 条約励行論』 日報社 1894年
 2. 井上哲次郎 「内地雑居論」『明治文化全集』第11巻 外交篇 日本評論社 1928年
 3. 卯九会 『内地雑居に対する諸大家之意見』前集・後集 廣益図書 1899年
 4. 桐村覚豊編 『国家的大問題・雑居非雑居』 興文堂 1894年
 5. 陸羯南 『日本叢書 外権内侵録』 佐々木正綱発行 1894年
 6. 久米邦武編 『特命全権大使米欧回覧実記』第1巻 岩波書店 文庫 1977年
 7. 華厳仙士 『内地雑居の利害及び其実施の方法・乙』 毎日新聞社 1886年
 8. 国家経済会 『条約改正に関する事項』 国家経済会 1891年
 9. 坂本則美 『実力政策』 本来堂出版 1890年
10. アーネスト・サトウ 坂田精一訳 『一外交官の見た明治維新』 岩波書店 文庫 1960年
11. 佐藤宏 『日本叢書 新条約実施論及其善後策』上巻 日本新聞社 1899年
12. 自由党党報号外 『内地雑居論』 自由党党報局 1893年
13. 条約改正研究会 『条約改正研究会報告 第一回』 樋口九八郎発行 1892年
14. 条約実施研究会 『条約実施研究会速記録』 辻治太郎発行 1898年
15. 鈴木僧隆 『雑居危言』 藤井潤導発行 1893年
16. 高橋自恃 『朝日叢書 内地雑居論』 大阪朝日新聞社 1893年
17. 田口卯吉 『居留地制度と内地雑居』 経済雑誌社 1893年
18. デフォレスト 『内地雑居論』 福永文之助発行 1898年
19. 内地雑居尚早同志会 『内地雑居尚早意見』 内地雑居講究会 1893年
20. 中西牛郎 『内地雑居と仏教の関係』 駸々堂 1894年
21. 中山泰昌編著 『新聞集成明治編年史』 全15巻 財政経済学会 1934年
22. 西 周 「内地旅行」『明六雑誌』23号 明六社 1874年12月
23. 林房太郎編 『内地雑居評論』 林房太郎出版 1884年
24. 原 敬 『新条約実施準備』 大阪毎日新聞社 1898年
25. 原 敬 『でたらめ』 大阪毎日新聞社 1899年
26. 原 敬 『現行条約意見 第二』 商務省部内資料 1891年
27. 人見一太郎 『国民的大問題』 民友社 1893年
28. 福沢諭吉 『福翁自伝』 岩波書店 文庫 1978年
29. 福沢諭吉 「内地旅行西先生の説を駁す」『明六雑誌』26号 明六社 1875年1月
30. 福沢諭吉立案・中上川彦次郎筆記 『通俗外交論』 飯田平作出版 1884年
31. 松永道一 『内地雑居経済未来記』 和田篤太郎出版 1887年
32. 陸奥宗光 『蹇蹇録―日清戦争外交秘録』 岩波書店 文庫 1983年
33. 横山源之助 『内地雑居後之日本』 労働出版社 1899年
34. ロエスレル稿 『内地雑居論』 1879年
35. L. Loenholm, The Conditions of Foreigners under the New Treaties
    『新条約下の外国人の地位』 長島鷲太郎発行 1898年
 
〔研究書〕
 1. 飛鳥井雅道 『文明開化』 岩波書店 新書 1985年
 2. 石井 孝 『明治維新の舞台裏』 岩波書店 新書 1975年
 3. 稲生典太郎 『条約改正論の歴史的展開』 小峯書店 1976年
 4. 稲生典太郎編 『内地雑居資料集成』 全6巻 原書房 1992年
 5. 井上 清 『条約改正―明治の民族問題』 岩波書店 新書 1955年
 6. 今井庄次 「明治二十年代における内地雑居的傾向について」『内地雑居論資料集成』     第1巻 原書房 1992年
 7. 色川大吉 『明治精神史』上・下 講談社 学術文庫 1976年
 8. 梅棹忠夫 『日本とはなにか―近代日本文明の形成と発展』 国際文化フォーラム
     1990年
 9. 笠原一男・安田元久編 『史料日本史』 山川出版社 1978年
10. 鹿島守之助 『日本外交史』第2巻 条約改正問題 鹿島研究所出版会 1970年
11. 加地伸行 『儒教とは何か』 中央公論社 新書 1990年
12. 神島二郎 『日本人の発想』 講談社 新書 1975年
13. 上山春平編 『照葉樹林文化―日本文化の深層』 中央公論社 新書 1969年
14. 姜 在彦 『西洋と朝鮮』 文芸春秋 1994年
15. 木下真弘 『維新旧幕比較論』 岩波書店 文庫 1993年
16. 佐藤誠三郎 『「死の跳躍」を超えて―西洋の衝撃と日本―』 都市出版 1992年
17. 佐藤誠朗 『幕末維新の民衆世界』 岩波書店 新書 1994年
18. 司馬遼太郎 『街道をゆく』第21巻 朝日新聞社 1983年
19. 芝原拓自 『日本近代化の世界史的位置―その方法論的研究』 岩波書店 1981年
20. 清水 勲編 『ワーグマン日本素描集』 岩波書店 文庫 1987年
21. 高取正男 『神道の成立』 平凡社 ライブラリー 1993年
22. 田中 彰 『明治維新と天皇制』 吉川弘文館 1992年
23. F.V.ディキンズ 高梨健吉訳 『パークス伝―日本駐在の日々』 平凡社 東洋文庫 1984年
24. 遠山茂樹 『明治維新と現代』 岩波書店 新書 1968年
25. 遠山茂樹 『明治維新』 岩波書店 1995年
26. E.H.ノーマン 大窪愿二訳 『日本における近代国家の成立』 岩波書店 文庫 1993年
27. 芳賀 徹 『明治維新と日本人』 講談社 1980年
28. 服部之総 『明治の政治家たち―原敬につらなる人々―』 岩波書店 新書 1956年
29. 羽仁五郎 『明治維新―現代日本の起源―』 岩波書店 新書 1956年
30. ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』 岩波書店 文庫 1991年
31. 南 博 『日本人論』 岩波書店 1994年
32. 丸山眞男 『日本の思想』 岩波書店 新書 1961年
33. 丸山眞男 『戦中と戦後の間』 みすず書房 1976年
34. 丸山眞男 『「文明論の概略」を読む』 岩波書店 新書 1986年
35. 丸山眞男 『忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相―』 筑摩書房 1992年
36. 山影 進 『対立と共存の国際理論―国民国家体系のゆくえ』 東京大学出版会 1994年
37. 山崎正和 『文化開国への挑戦―日本の世界史的実験』 中央公論社 1987年
38. 尹  健次 『民族幻想の蹉跌』 岩波書店 1994年
39. 歴史学研究会・日本史研究会編 『講座 日本歴史』第7-8巻 東京大学出版会 1985年
40. 歴史学研究会編 『日本史年表』 岩波書店 1984年 

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