日本の国歌「君が代」は明治以降、そして太平洋戦争の前後を通じて一貫している。戦前と戦後に截然たる区切りを設けるべきだと考える人びとはこの一貫性を嫌い、戦後日本の国歌として認めようとしない。
それで、戦後70年を迎えようとする現在も卒業式やオリンピックなどの国歌斉唱のときに自国の国歌を歌わない人が少なからずいる。また、例えば丸谷才一氏のように「裏声で歌へ君が代」と主張する人士もいる。
日本は戦後新たな平和国家として再出発するに際し何らかの形で歴史的な切断を設けるべきだった、と僕は考えている。戦後日本が国内外に対して戦前とのあいだに断絶を示す機会を失ったがゆえに、日本は歴史的な反省をしない国家として負の歴史を背負うことになったとも考える。かつて日本の版図に含まれた地域の人びとを「切り捨てた」ことも誠実さを欠く対応だったと言わざるを得ない。
一方、戦後70年を目前にしながら、未だに国歌を歌えない人びとがいることは嘆かわしい、としなければならない。僕らのあとの世代には国歌を堂々と歌えるようにしてあげたいし、そうしなければならないのではなかろうか。
だからといって「君が代」を廃止して別の国歌を制定するという主張に単純に与することもできない。問題は国歌そのものではなく、戦前と戦後をどう区切り截断するかにあるからだ。ではどうすればよいのだろうか。戦後日本を肯定しつつ「君が代」に別の意味を付与するしかないと、僕は考えている。
「君が代」を聞くとき、また歌うとき、聴きながらそして歌いながら歴史を振り返り、国際的な視野に立って歴史を反省する歌として接するのだ。同じ国歌を歌いながら天皇家の悠久さを讃え自国の歴史を礼讃する人びとも少なからずいる。それを承知のうえで自らは歴史的な反省を行うものとして歌うのだ。
「君が代」の歌詞の内容を批判的に読む作業だと考えてもよい。