先週パリで「アルカイダ」を名のるグループによる新聞社襲撃事件があった。17人の犠牲者があり、犯人4名のうち3名は現場で射殺された。事件は言論の自由に対する蛮行とされ、世界的に大きな関心を呼んでいる。
事件の2日後、パリほかで各国首脳を含む数百万人規模のデモが行われた。日本の新聞は1面トップで例によって西欧礼讃調の記事を載せた。日本社会には民主主義に関わる何かが欠落していて、記者たちにはそなわっているかのようにだ。
ところで、なぜ日本にはデモが少ないのだろう。2011年の東日本大震災の際に暴動が起きなかったことで絶賛された日本社会に、なぜデモが少ないのだろう。
都市部に限定して言えば、わが日本社会においては毎朝夕にトレインという閉鎖空間でデモが行われていると考えられなくもない。ただし、そこは何かを訴えるための空間ではない。エゴとエゴの醜いぶつかり合いとスペースを確保した者の傲慢があるだけだ。
彼らはそれぞれあらかじめ定められた駅に向かう(‘destined’ ‘stationed’)。 だから、乗っているトレインがどんなに揺れようと、あるいは遅延しようと、彼らのめざすところ(駅)が変わることはない。それは文字どおり運命なのだ。個別の駅という destination こそ彼らの最大関心事である。