「トレインピープル」(TP)という用語で日本社会について考え始めたのは、90年代半ばごろだったろう。仕事しながらA大学の二部の大学院に通っていた。科目の一つにアメリカ人講師のコミュニケーション論があって、その課題で TP について書いている。
その数年前に小説の手法を借りてTPを描こうとしたが、結末がまとまらずに断念していた。彼らが生きる意味を見いだせないばかりか、永劫に救われないと考えていた彼らの生態を十分に描ききれなかった。TPを否定的に捉えていたのがいけなかったかもしれない。
TP とは、東京のような大都市に棲息する人びとの集団で、英語の trained に掛けている。彼らに共通する性向の一つは、家畜のような従順性である。朝夕の通勤通学電車の車内に彼らの特性が象徴的に表れていると考え、TPと名づけた。家畜のように飼い馴らされた人びとだと理解していた。
ひたすら押し黙り、朝晩繰り返される家畜搬送車に閉じ込められた時間をじっと耐える。ひっきりなしに流れる車内放送を聞き流しているが、いつしかその内容に洗脳されてしまった人びと。
最近10年ほどの間にスマホが急激にと言ってよいほど世界的に普及したが、TPはいち早くこの流行を取り入れた。そのIT機器が彼らの性向にこの上なく合致していたからだ。スマホやゲーム機器の共時的な広がりと個々人における閉鎖性。
スマホが登場するまで、TPの関心はもっぱらマンガ本や新聞紙、音楽付き耳栓にあった。それが携帯電話になり、スマホに代表されるIT機器に取って変わられただけで、彼らの指向性や行動様式は微塵も変わっていないように見える。
子どもがヒステリックに泣き叫ぶのも、小学生が四角いザックを背中にして騒ぐのも、女子高生が甲高い声で間断なく話し続けるのも、中高年の男女が車内で我がもの顔で話すのも、みな閉鎖性に起因し、他者を顧みない利己主義に根ざしているように思う。彼らは独特な信仰をもっている。