上からの複言語主義という試み

ヨーロッパでは歴史的に国境を越えた経済活動(や戦争)があって異なる言語話者間の接触があり、複言語話者のあいだの恋愛や結婚が全域に定着していると思います。そのため夫婦間で母語が異なり、家庭内でバイリンガルの状況があるわけで、その子どもたちは必然的にバイリンガルになる。

いわば個人におけるバイリンガリズムが生じ、それが歴史的にトライ、クォード・リンガルになるわけです。そういう歴史的な基盤の上に複言語主義が成り立っていると考えられます。ここで見落としてならないのは、個人における複言語ということであり、複言語主義にもとづく体制づくりがあって、複言語化が行われたのではないという点です。

他方、日本の豊田や大田の外国人集住地域であれ新大久保であれ、日本で多言語化や複言語化を推進しようとする人びとがよく引き合いに出す地域、学校や企業などの場合は、その対象は個人ではない、地域社会であり集団です。これらの「先進的な」事例を好んで、将来のあるべき姿を見ようとするわけです。それで、他の学校や企業ないし地域に多言語の枠組みを導入して、上からの複言語化を図ろうとするわけです。

そもそも、個人における複言語化がないところに社会として複言語化が可能なのかどうか。日本では明治以来、上からの改革(維新)で教育制度から経済制度、政治制度を導入して富国強兵を図り、1945年の破局を迎えたと考えることもできます。

竹島や尖閣、北方四島などの領土紛争や拉致など未解決の問題を抱える地域間でいかなる形の複言語主義が成立するのか、させようとするのか。そういうことを主張するのは自由だし、好ましいことだと考えます。ただし、日本において漢語(普通語)、ロシア語、韓国語、朝鮮語、他のアジア地域の言語や英語を含め、複言語主義を唱えるということはどういう意味を持つのか。一部の官僚や教育・メディア関係者の自己満足に堕していないか、真摯に見直す機会があってもよいと考えます。この一文は自己批判の意味で投稿するものです。

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