6月中旬、米国のシアトルに約1週間滞在した。2年間のMBA課程を修了した娘の卒業式に参席するためだ。滞在中、2年間を振り返りながら、いろいろなことを考えた。
ちなみに、シアトルは西海岸ではなく、太平洋岸北西部に属すそうだ。アラスカ州、カナダのブリティッシュコロンビア州、ワシントン・オレゴン・アイダホ州を太平洋岸北西部と呼ぶらしい。英語: the Pacific Northwest (PNW)
Commencement
卒業式の式次第に Commencement とある。「始まり」の意味しか知らなかったが、米国では大学の卒業式をいうようだ。
卒業式はアメリカの青春ドラマそのものだった。幼子を抱き、子どもと手をつなぎながら卒業証書を手にする登場人物たちを見ながら、こういう体験をできる彼らを心から羨ましく思った。
日本の卒業式とはあまりにもかけ離れていた。夕方約2時間、誰のスピーチも司会もないパーティが、MBAの建物のロビーほかで行われ、その後、場所を移動して、夜7時から約2時間の式が催された。
冒頭、TEDを思わせるステージを左右しながら体験を交えて語りかける大学理事のスピーチがあり、続いて Evening と Full time の卒業生代表のスピーチが行われた。いずれも感銘深い内容だった。卒業生たちの感動はいかばかりだろうか。
母親の娘に対する思い
2年間に妻は何度か娘を訪ねているが、僕は卒業式に合わせて一度行っただけだ。元来あまり勉強好きでない娘が授業について行けるか、留学生活に適応できるか、事故に遭わないか、病気にならないか、心配しない日は1日としてなかったようだ。
まったく心配しなかったと言えば嘘になるが、僕は常に何とかやるだろうと思っていた。気質の違いもあるだろうが、自分のいい加減さとともに、妻が娘を思う気持ちが想像以上に強いことを思い知らされた。
SNSが支えた交信
2年間を通じて娘が非公開のブログを書いてくれたので、彼女が感じ考えていることの一端を知ることができた。僕もときどきコメントした。決して短くはないブログが、2年間で225本を数えた。それを読むことで、娘との距離感がぐっと近づいたように思う。ブログ以外に Line や Skype を通じたやり取りがあり、日本国内で離れて住んでいたときより親密度が深まった気がする。
娘の人生と僕の人生
娘にとって僕は一人の男性として、父親として、また彼女の母親の夫として決してほめられる者ではなかったし、いいモデルを提供できなかった。一言で表現すれば、僕は反面教師の役割を果たしたのだろう。そう自己評価することで何とか自分と娘の関係を認めようとしているのだと思う。
時代と家庭環境
誰でも留学できる時代だから、時代が彼女を後押ししたといえよう。とはいえ、大学院に留学して卒業することは容易ではない。それに挑戦しようとすること自体、相応の精神力と体力が求められる。彼女はなぜ挑戦しようと考えたのか。幼いころからまっすぐで無謀なところがあったが、無謀さだけでは留学しようと思わないだろう。さまざまな要因があったろうが、彼女を押したのは母親だったろうか。やはり、彼女の無謀さだったろうか。
海外留学と外国語
海外留学しようと考えたときから、彼女には欧米しかなかった。アジアという選択肢をはじめから切り捨てていたように思う。優れた MBA 課程を持つシンガポールや中国という選択肢もあったはずなのだが。スポンサーの意向もあったろうか。
外国語という壁も大きかったろう。高校時代にバンクーバーで1年過ごしたとはいえ、英語力が不足していた。元来、勉強するよりは身体を動かしているのが好きだった。それらを補い、MBA 留学するために、1年間 MBA 専門の予備校に通った。そういう準備をしても、留学してから半年から1年は授業についていくのがやっとだったようだ。文化や制度を含む外国語の壁は想像以上に高い。
教育風土
文化や制度のなかで最も大きい違いは教育風土だったように思う。戦後、日本は米国の教育制度を押しつけられたが、教育風土までは変えなかったようだ。藩校や私塾、寺子屋などが日本の伝統的な教育風土を培ったのだろうか。家庭や社会そのものに根ざした風土だろうか。授業中は教師の話を静かに聴くように教えられ、目上の人をただ年上というだけで敬うように教え込まれ、その人と対立する意見を述べることは失礼だと習った。こういう教育風土を「儒教的」ということもできるだろう。
米国の教育風土はまったく異なるようだ。大学院では、教授が講義しているさなかに学生たちがひっきりなしに質問し、コメントし、意見を述べるそうだ。初等教育以来そういう風土で育った人々のなかで「儒教的」な風土で育った者が、教授に対して自分なりのコメントをし、意見を述べるのは容易ではあるまい。韓国や日本の学生は、なかなかこの風土になじめないだろう。
まさに、福澤諭吉のいう「一身にして二生を経るが如く」ではないか。なかなかできない経験だ。それを娘が体験してくれたことが誇らしい。
MBA を支える社会制度
MBA の学生たちはみな、よりよい条件の企業に転職する資格を得るために高額の授業料を払って2年費やすという(Evening MBA は3年)。米国社会には、彼らを受け入れる制度が設けられているということだ。
よりよい条件は人によって多様だろうが、その根底にあるのはより高い報酬とやりがいだろう。それを支えるのが資本主義経済と個人主義なのだろうが、望ましい条件を獲得できる者はごく一部に限られている。それは多くの人々にとって高嶺の花だ、という見方を僕は身につけている。彼らから見れば、僕は資本主義社会の敗者なのだろう。
限りある人生
人の生涯にいくつか節目があるように、人生にはさまざまな「限り」がある。その最たるものが死であり、万人に共通だとされる。娘の生き方を見ていて、ひとつの節目を通過したように思う。同時に、僕もひとつの節目を過ぎたと思う。この2年間、僕なりのやり方で彼女とその母親である妻と伴走したことがそう思わせるのだろう。
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