小器晩成

漢字熟語で習うのは大器晩成だが、世の中に大器と呼ばれる人は稀だろう。多くは平凡で、死んでしまえば、忘れられてしまう。人の営みとはそういうものではないか。ただ、そういう人々の生き方が大器の人のそれより劣っていると考える理由は何もないし、そう考えるべきではない。

逆説的に彼らの営みを小さな器に例え、小器と呼んではいかがだろうか。もちろん、僕は小器だろうし、これまでに何をなしたか自覚がない。だから、何をもって晩成とするかも知らない。そもそも、一生のあいだに何かを成さなければならない、という考えも持ち合わせていない。これを偏屈というなら、そのとおりだろう。

70歳になって小説を書いて新人賞に応募するのは野心のなせる業だろうが、これで何かをなすことにはなるまい。ただ、いまようやく理解するのは、大器晩成とか故郷に錦を飾る(富貴不歸故鄉、如衣繡夜行)とか、漢字熟語には儒教的な功利主義や実利主義にもとづく言説がいかに多いかということであり、日本語がいかにそれに影響されているかということだ。あるいは、日本語にもともと功利主義的な志向が強くてそういう部分を好んで切り取ったということなのだろうか。

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