通勤電車に乗ると、近くに誰もいない座席の上に無造作に置かれた白い木綿製の布袋が二つあった。そこに坐ろうとして布袋を荷だなにあげると、かなり重かった。誰も取りに来る気配がなかったので、通勤途次のターミナル駅で降りてインフォメーションカウンターに行き、届け出ようとした。中をみると二つの袋とも、パソコンやスマホ、財布などが入っていた。

十年余り前に電車の荷だなに置き忘れたジャケットと財布が返ってこなかった苦い経験があるから、一刻も早く落し主に届けたい、と思ったのだ。ところが、対応した職員はいかにもマニュアルどおりで不愉快だった。「権利を主張するなら警察に行ってください」とも言われ、そんなつもりはなかったが、二つの重い袋を持って職場の近くにある交番に行った。

巡査に事情を説明すると、鉄道の駅に届けるように言われた。駅員と同じ対応だな、と思った。一度職場に出勤し、一つの袋の底にあった財布のなかの学生証を手がかりに、その大学の学生課に電話をした。持ち主と思われる人の学籍番号等を伝えると、すぐ本人に連絡するとのことだった。これでうまくいく、と思っていると、しばらくして呼び出し音が鳴った。電話口に出たのは、同じ大学の別の人で、やはり駅に届けてくれと言う。納得できないままに電話を切った。

もう一度駅に行くつもりはなかったので、手間のかからない方法として、学生証と保険証の裏に書いてあった住所あてに送ることにして、ダンボールに詰めて宛先を書き込んだ。2時間ほど経ったころ、二人の学生が突然事務所にやってきて遺失物を探しているという。スマホのGPS機能を使って追跡してきたのだ。いかにも現代的でうらやましかった。

ダンボールを開けさせると、一つの袋を取り上げて、「あった、あった」と興奮ぎみに喜んでいた。もう一つの袋は友人のものだという。僕はこれまでの経緯を説明し、事情を理解してもらえたろうかと思いつつ、頭の片隅で「余計なことをしたかな」と思った。結果的には同じだったに違いないからだ。GPS機能を使って鉄道の駅に行くことができたはずだから。

訪ねてきた学生たちは僕のことをどう思ったろう。偏屈な老人ぐらいに思ったかもしれない。また年がいもなく余計なお節介をしたように思われ、自己嫌悪に陥っている。

夜、一人の学生の母親から感謝の電話をいただいた。これでよかったのだ、と思うことにしょう。