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公衆電話

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20年ほど前までテレフォンカードを持っていればどこでも電話を掛けることができた。いまカードは無用となった。一体この変化は何なのだろう。単に通信手段の変化という程度のものではない。

上野駅近くの地下道に1台だけ置かれた公衆電話、かつては左右に何台か並んでいたに違いない。公衆電話が主たる通信手段だった時代が、10年ほど前まであったのだ。

ミンカブァンという韓国人女性

ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)という韓国人女性をご存じですか。韓国ではほとんど忘れられた人ですから、日本でご存じの方は少ないと思います。その女性の自伝が50年ぶりに韓国で復刊されました。

カブァンの生涯は次のとおりです。( )内は陰暦-
——————————.,
1897年10月20日 カブァン、ソウル笠洞で生まれる(9月25日)
1905年11月17日 第2次日韓協約調印、叔父の閔泳煥、抗議の自殺
1907年3月14日 初揀擇の儀(2月1日、徳寿宮)、皇太子妃候補に
1908年1月23日 第2回揀擇の儀、婚約指輪が届く(1907年12月20日)
1910年8月22日 韓国併合される
1916年8月3日 イウンと梨本宮方子の婚約、日本の新聞に発表される
1918年2月13日 カブァンとイウンの婚約、破棄される(1918年1月3日)
1918年7月5日 祖母死去(5月27日)
1919年1月4日 父閔泳敦死去(1918年12月3日)
1920年4月28日 イウンと梨本宮方子、結婚する
1920年7月22日 カブァン、弟チョネンを連れ仁川を出航、上海に亡命する
1920年 東亜飯店[南京東路]に約3ヵ月滞在する
1920年10月 フランス租界宝裕里に移る
1921年(?) カブァンとチョネン、晏摩氏女中に入学。3年余り在籍
1924年初め 日本官憲の追跡を恐れ同校を退学、イギリス租界山海関路に移る
1928年10月22日 母死去(9月9日)
1932年 共同租界愚園路に移る
[年不詳] 共同租界膠州路に移る
1945年8月15日 太平洋戦争終結、朝鮮解放される
1946年6月 カブァンとチョネンの家族、祖国に帰国する
1946年 ソウル駅前大同旅館に滞在する
1947-48年 六親等の弟の家の離れに移り、約2年滞在する
1949-50年 妹マンスンの家に移り、数ヵ月滞在した後、寺洞宮に移る
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発、清州に疎開
1950年 カブァンとチョネンの家族、プサンに移る
1953年7月 朝鮮戦争、停戦協定調印される
1962年10月 自伝『百年恨』出版される
1968年2月5日 チョネン死去(1月7日)
1968年2月18日 カブァン死去(1月20日)
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Interpark(記述に一部誤りもあるが、本の概要を伝えている)

カブァンという韓国人女性は僕にとって特別な存在だ。長年、関連の資料や写真を集めてきた。復刊に際し校正作業を手伝い、写真約20点を提供した。

頑固爺の死

篠田さんが亡くなった。終末期医療を受ける施設に入って間もなく亡くなった。心臓肥大に伴い酸素濃度が低下していたが、すぐには急変しないだろうと聞いていたのに、あっけなく死んでしまった。

最近会っていなかったが、40年に及ぶお付き合いだった。あの頑固爺を喪った喪失感は大きく深い。僕の父と同世代だったが、実父より父親らしい存在だった。

終末期医療のため御岳にある施設に入院したと聞いて、今週末に訪ねるつもりだったのに果たせなかった。最後の挨拶をできなかったことが悔やまれる。

あの頑固爺にもう会えないと思うと、胸苦しく哀しい。彼の訃報に接してから藤村の小諸川旅情の詩の断片が時おり頭の中に浮かぶ。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし…

…きのうまたかくてありけり
きょうもまたかくてありなむ
この命何をあくせく
あすをのみ思いわずらう

…ああ古城何をか語り
岸の波何をか答ふ

——

千曲川旅情の歌 島崎藤村

小諸(こもろ)なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼(ああ)古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(ももとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれい)を繋ぐ

ウェブサイトを作る作業

2014/02/15
きょうも終日ウェブサイトを作る作業に費やした。でもうまくいかなかった。首尾よく更新できていたら、こんな脱力感に襲われることもないのだろうが。

そもそも僕が拘泥しているようなことを気にする人など、ほとんどいないのだ。ちょっとした色合いの違いとかタブ設定など、どうだっていいではないか。なぜ、そういうことにこだわってしまうのだろう。これはもう病気かもしれない。

2014/04/18
きのうきょうと多くの時間をサイトの不具合修正に費やした。幸い修正できたものの誰も評価してくれない作業だろう。

WordPressへの不当なアタック

国外のIPアドレスによるアタックが原因でサーバーに過当な負荷がかかっており、サイトにアクセスできなかったり(エラー表示 P80)、メールを受信できない(エラー表示 P25)などの状態が生じる。

プロバイダのサポート担当者は、よどみない説明をしてくれた。

来歴

来歴という言葉にはじめて接したのは、萩原朔太郎の文章だったと思う。僕の記憶ほど当てにならないものはないが。

背表紙が革製の全5巻の全集を持って、ひと夏、岡山県の山間部にこもったことがある。浪人した年の夏か、高三の夏休みだったと記憶している。

2013july

何年も行っていない山に行く。

いや待てよ、3年前の夏、韓国人の友人と二人で行っているではないか。そう言われればそうだが、あのときは初めから登山するつもりではなかった。

車で塩山まで行き、西沢渓谷の入口近くの宿に泊まって、渓谷沿いにハイキングするつもりだった。夜遅くまで酒を呑み、朝もゆっくり風呂に入ってから出かけた。

なのに少し登り始めたら、二人ともどんどん登りたくなった。途中から雨が降りだし、体中ずぶ濡れになったが、止まらなかった。甲武信岳をめざしたが、木賊山の頂上で引き返した。頂上で呑んだマッコリのうまかったこと。

今回の山行は娘の誘いだった。体力的な自信はないが、本格的な登山は初めてという彼女となら大丈夫だろうと考えたのだ。

2013may

2013/05/01
あさ、最寄り駅の改札を通過できなかった。きのう定期券の期限が切れていたのだ。何年も前に一度こんなことがあったような気がする。老いと結びつけるなかれ

とはいうものの、最近は自分でも驚くようなミスが少なくない。いくら考えても絶対ありえないと思われることを見せつけられることがある。これをどう捉えるべきか。

2013/05/07
4日間の連休でようやく休暇らしい休暇を取れたが、半分以上は노무현の自伝第1章の翻訳に費やした(文字数18,000)。内容は実に興味深いが、出版の日程を考えると、僕にはできそうにない。

ささやかな達成感を得て、少し気分が高揚したように感じる。所属団体のHP改訂作業をしているが、ようやく指定ロゴを使ってトップページのデザインを変更することができたのだ。

2013/05/08
朝の定例会でHP改訂案を見せたが、ボスにあっさり否定されてしまった。一つ前の段階で確認を取ったはずだが、お山の大将にはかなわない。こんなことで一喜一憂していても仕方ないな。

2013/05/10
ノムヒョンの自伝を翻訳する仕事を投げやるべきではない。第1章の翻訳稿を出版社に送ったあと、そう考えるようになった。ストレスを抑えながら雑務に追われているだけでは、あまりにも自分がかわいそうではないか。

周囲の人びとに自分の虚像を見せることで、どうにか自分を保っている。