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aya musica
aya musica というサイトがある。イタリア語でアヤが音楽を奏(かな)でるという意味らしい。
音楽と数学(幾何学)を学んだという来歴にひかれ、ここ数日何度もアクセスしている。といっても、じっくり文章を読み込むわけではなく、その歌やピアノ演奏を聞くだけだ。それがいいのだろう。肩ひじを張らずに聞き流していると、どこか静けさのなかに取り残された自分を見出し、落ち着くような気がするのだ。
The North’s Taedonggang Beer
文聖姫著『麦酒とテポドン: 経済から読み解く北朝鮮』(平凡社新書 2018年12月)を読んだ。麦酒とは、Economist 2012-11-24(下に引用)が韓国のビールよりうまいと評した大同江ビールのことであり、北朝鮮の改革・開放経済を象徴している。[上の写真 (c) KKF]
…..And despite the recent creation of Hite Dry Finish—a step in the right direction—brewing remains just about the only useful activity at which North Korea beats the South. The North’s Taedonggang Beer, made with equipment imported from Britain, tastes surprisingly good…..
著者は在日コリアン二世で、北朝鮮系民族学校から日本の大学に進み、朝鮮新報(総連の機関紙)に入社して2006年まで勤める。02年の日朝首脳会談で拉致事件の真相が明らかにされたことに大きなショックを受けるが、平壌特派員(3-4ヵ月)を二度経験し、短期出張でも何度か北朝鮮を訪ねている。2018年に朝鮮籍から韓国籍に変更している。
本書の副題にあるとおり、著者は北朝鮮を「経済から読み解」こうとしながらも、可能な限り北朝鮮のふつうの人々の生活に迫ろうとする。北朝鮮について基礎知識を持たない僕は、時期が前後する北朝鮮のニュースや統計の断片がつながりにくく、初め焦点の定まらない映像をみるような感じがしなくもなかった。固定観念という老眼のせいだったかもしれない。
ただ、読み進めていくうちに著者独自の視点が見えてきて、北朝鮮の人々の姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。第4章「大同江ビールと改革・開放」に至って、勤め帰りにビアホールに立ち寄り、おいしいビールを飲んでいる人々の姿がその表情とともに伝わってきた。
全体を通じ著者が北朝鮮と韓国を心から愛していることが温かく伝わってきてすがすがしい。また、僕らが知っている北朝鮮に関する情報がいかに偏頗なものか、そのもとにある日本社会や韓国ないし中国や米国に対する見方がどれだけ断片的なものかを気づかせてくれる貴重な観察録である。
本書の章だては次のとおりだ。第6章と7章は新聞等で周知の情報も多く、一般読者には読みやすい。はじめにこれらの章を読んでから第1章を読む方法もあるかもしれない。
- 市場経済化の波は止められない
- 経済から読み解く金正恩体制のゆくえ
- 北朝鮮の人々
- 大同江ビールと改革・開放
- ブラックアウト、消えた電力
- 南北経済強力と文在寅政権
- 核開発とミサイル
↓大同江ビールの関連情報ほか↓

米国製の大同江ビールもあるようだ。ラベルの上方に<醸造の自由>とあるのがいかにもアメリカらしい。
大日本帝国が大韓帝国を植民地化した1910年の翌年、大阪で発行された朝鮮全地図の裏面に当時の平壌市街図が載っており、右寄りに大同江が太く描かれている。現在のビール工場がどの辺にあるのか想像すると、ほのかな酔いに襲われるかもしれない。

1970年の彼と2020年の僕
二十年前に雑誌「外交フォーラム」(2002年12月)に寄稿した文章を読み返した。日本の大学や高等学校における韓国語教育の実態調査に取り組んでいた時期に書いたので、「学校教育」の側から韓国語学習者を見ている。その一部を引用する(文中の「韓語」は韓国語・朝鮮語の意味)。
「七十年代、日本でとらえられていた隣国のすがたは政治的な側面だけが突出していました…韓語の教科書はわずか二冊、学習者はほとんどいませんでした。カセット教材などなく、韓国のラジオ放送や平壌放送を聞いて発音を覚えました…(02年当時)全国で5000名近い高校生と数万名の大学生(高校生の約0.1%、大学生の1-2%)が韓語を履修しています…彼らはハングルをかっこいいと感じ、韓国映画やKポップが好きで学ぶと言います…」
この文章から約二十年後の現在、日本ではBTS(防弾少年団)に心酔する中高生が増え、韓国ドラマを視聴する中高年も「冬ソナ」以来とどまることがない。若い世代を中心に韓国コスメの人気もすっかり定着した。在日コリアンの四世代に及ぶ歴史と日本社会の不条理を描き2017年に米国の National Book Awards 最終候補作となった”Pachinko”(日本語版は昨夏に発行された)が米国でロングセラーになっている。韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の日本語版が2018年末に出て多くの読者を得ていることも特筆に値する。
これらの事象を「ブーム」として捉える人が多いが、これまで二十年ないし五十年の変化相を見ると、「ブーム」と呼ぶにはあまりに広く深いし多岐にわたっている。これらの「ブーム」を支える何十万何百万の人々が韓国文化にふれ、文化にまつわる経験をしているはずだ。幾千万の人々が国境を越え文化の壁を意識したであろうことも容易に想像できる。
五十年を振り返って、はたと思う。1970年ごろ深夜暗い部屋でKBSラジオの海外同胞向け放送や平壌放送の乱数表(暗号)を聴いて発音を覚えた者と、YoutubeでBTSの歌やインタビューを聴きながら韓国語を学び、その歌詞や発言に感銘を受ける現代の中高生や学生とのあいだに、五十年という時間と明暗のほかにどんな違いがあるのだろうか、と。不必要な緊張を強いられずに好きなKポップを聴き、韓国語を身につける彼らを率直にうらやましく思う。ただ、自分たちの世代が恵まれていなかったとは思わない。まったく違う指向性にみえるかもしれないが、両者ともに自ら好きで隣国の人々と文化に向き合っているのであり、その点ではいささかも異なるところがない。いぶかしく思うかもしれないが、思いは同じなのである。
最近二十年ほどの日本における韓国文化の受容で注目されるのは、孤立しているように見える個人が、単なるわがまま勝手ではない強い意思をしっかり持っていることだ。だから、BTSに近づくために韓国語を学び、彼らとやり取りしようとして突き進んでいく。強靭ともいうべき個性を持っているからこそ、わき目もふらずに進めるのだろう。五十年前の僕も誰かにいわれて隣国に近づいたわけではないが、彼らほどには個人として強靭でなかった。2008年から十年余りアシアナ航空と韓国文化院が主催する高校生の韓国語・日本語コンテストを通じて接した全国の高校生たちは堂々としていて、怯むところがない。彼らの家族や学校教育関係者がどう後押しするかが問われている。
在日コリアンの歴史を描いた”Pachinko”がなぜ米国社会に広く受け入れられているのか、よくはわからない。ただ、日本のように「単一民族」性の根強い社会よりも米国のような移民社会の読者のほうが在日コリアンの歴史を理解しやすいことは間違いない。”Pachinko”の読者はそこに描かれた日本社会の閉鎖性と他民族を社会の構成員として受け入れない硬直性に驚き呆れ、米国社会の基本枠組みにもとづいて軽蔑すらするだろう。在米コリアンの著者は、たとえば、パチンコ店で働く一人の人物を通して60-70年代に祖国に希望を見出しながら日本社会を離れた在日コリアンの姿を鮮やかに描いている。彼女の優れた取材と構想力は自身の移民二世としての体験と米国という多民族社会でこそ培われたものだと考える。
他方、日本ではあまり知られていないが、これまで二十年のあいだに急速に「多文化」傾向が進行している韓国社会の変化も見逃せない。この変化が上述のこととどう関係しているか不明だが、どこかで影響しているように思う。雑駁な表現ながら、「多文化」社会への進行度合いにおいて、日本の閉鎖性と息苦しさは韓国よりもむしろ北朝鮮に近いのではないか。日本に欠けている「多文化」性が韓国社会にはある、若い人々はそれを鋭敏に感じていると思う。彼らをKポップスターに引きつけてやまない要因のひとつがそこにあるかもしれない、と考えている。
日本における韓国文化の広がりと深まりは決して揺らぐことはないだろう。この五十年のあいだに人々の営みにより水嵩を増した文化が滔々と流れているからだ。一方で、かつて日本の複数の新聞が「地上の楽園」と呼び、在日コリアンが嬉々として万景峰号に乗って渡って行った北朝鮮と日本のあいだには深い不信と疑心暗鬼が堆積している。日韓の政府関係も歴史問題をめぐって深刻な膠着状態にある。
あえて言いたい。日韓・日朝の政府・外交関係と日本における韓国文化の受容状況を並列し、同次元で論じてはならない。自国はおろか自党の利害しか考えない双方の政治家や偏頗なイデオロギーに囚われた人々の扇動に振り回されてはならない、と。韓国文化を受容している現代の中高生や大学生が決して愚かな政治家や似非ジャーナリストに振り回されないことを信じ、日韓・日朝関係の将来を君たちに託したいと思う。意識していないだろうが、君たちは隣国の人々と文化に自ら進んでアプローチしている。だから、自分たちの感覚や考えを持ち続けられると思うからだ。
簡憲幸さんと51年ぶりに
以下、簡憲幸さんのサイトから転載させていただきます。
「その問題解決いたします、本質から」

よく「簡さんのお仕事は何ですか?」と聞かれます。「事業開発のコンサルタントですが、講演もしますよ。また文化講座などのイベントをしますし、コンサートなども企画して実施しています。これらは道楽ですけどね」などと答えます。
質問をされた方は、きっと「良く分かんない」と思われるでしょう。実を言うと、私も自分が「何屋さん」なのかが分からなくなります。しかし、もともとがコンサルタントですから “solution をする仕事” が正しい答えかもしれません。”solution” とは、問題解決のために具体的な方策を提示する仕事です。
しかし、私は “solution” という言葉を好きにはなれません。なぜならば、 ”solution” という言葉には「溶解」といった意味があるからです。たぶん問題解決には、その問題を「溶解(分解・分離)」することが必要だからでしょう。
ITシステムや機械システムにおいては、有効な手段でも、私がお相手させていただいているのは人間です。「溶解・分解・分離」では答えは発見できません。
なぜならば、システムや機械をバラバラにしても、そこには本質がないからです。個別の部品に欠陥があれば、修理は可能でしょう。ですが、システム全体にかかわる問題は、部品を調べても発見できないのです。
また、もし部品に欠陥があり、それを交換したとして、それで問題解決とはなりません。「なぜ部品が欠陥となったのか?」または「なぜ欠陥部品が紛れ込んだのか?」、この辺が問題なのです。問題をパーツのせいにしてはいけないのです。
企業において問題が起きると誰かのせいにしますが、事象として現れるその個人も問題もあるでしょうが、深層ではその組織に問題があるのです。
風邪をひいて、解熱・くしゃみ止め・鼻水止めの薬を飲み、それで風邪という病気が治ったと思っています。しかし、問題は「なぜ風邪をひいたのか?」「風邪になる体質はどうしたら改善できるのか?」です。
つまり、対症療法では根本的な解決にならないのです。水漏れのパイプにパッチワークをして一時的に水漏れを防いでも、その場しのぎで真の解決にはならないのです。
私は真の問題を発見したいと思っています。そして、その解決のための具体的な方策を提示したいと考えています。さらに、その具体的な方策を企画実施することが重要だと感じています。それが私の仕事なのです。

- 氏名:簡 憲幸(かん のりゆき)
中国名: CHIEN HSIEN-SHING - 住所:〒164-0002 東京都中野区上高田 1-35-4 第二昭和ビル22
- 携帯電話:090-9245-6048
- メール:chien0008@hotmail.co.jp
- 華僑二世として1954(昭和29)年10月7日、東京に生まれる
日本大学芸術学部卒業後、コピーライター・プランナー・マーケッターとして活動し、その後、新規事業コンサルタントとして、また近年は中国・台湾そしてアジアを中心として活動をしている。また文化事業・講演活動も積極的に行なっている。
【初期相談】
- ご相談の内容は、どのような案件でもお受けいたします
- ご相談のお時間は1時間程度です
- ご相談に関する企画書・資料などがあればご用意いただき、ご持参ください
- 一回のご相談料は3万円です、当日ご用意ください
- お客様の事務所までお伺いいたします
- 可能な限り、その場でお答えをお出しします
- ご相談の内容について固く秘密保持をいたします

事業開発コンサルタント
一流企業の新規事業開発のコンサルタント業務を行う。具体的には荏原製作所・コニカ・大成建設・サッポロビール・丸紅・大和證券・資生堂・NTTデータ・NTTドコモなどの商品開発・事業開発・市場調査など数々のコンサルタント業務を行う。一事例としては芙蓉グループからの依頼で英国「クイーン・エリザベス二世号の日本招聘」の事業開発コンサルタントをする。近年は、デジタル・ウェブなどに関する新規事業開発のコンサルティングを行っている。また、東京都や地方自治体・大成建設をはじめ、旅行代理店・広告代理店・IT企業など一流企業の依頼により「企画論」「リーダー論」「組織論」「会議論」の講演や経営者教育・新入社員教育・営業マン教育などの講師・指導者をしている。
国際事業コンサルタント
中国・台湾などにおける新規事業開発・事業投資などに関してビジネス・コンサルティングを行う。とくに台湾・中国に関する様々な分野でのコンサルティング・コーディネイトを行っている。また上海、さらに北京・台北・東京において国際フォーラムを行い、また財団法人国際文化会館などにおいてインド・ムンバイ・ドバイ・シンガポールなど国際セミナーを主催。さらに中国・アジア圏での文化交流サロン竹林閣において、弁護士・弁理士・行政書士の専門家を対象とした「日本知財懇談会」を主催している。現在は、日本の中小企業のアジア進出を支援する「STEP TO ASIA」プロジェクトを企画し推進中である。講演としては、「中国文化論」「台湾歴史史観」「日本文化史」をテーマとしている。
アート・ディレクター
クリエイティブ関連ではアート・ディレクターとして、電通・博報堂・アサツーDK・読売広告・東急AGC・大広をはじめとした広告代理店各社、電通PRセンター・日経リサーチセンター・日本リサーチセンターなどのマーケティング企業からの業務依頼により行う。また、広告宣伝・販売促進・PR・CI・マーケティングなどの専門家・プランナーとして活躍する。コンピュータ・アート作品をも手がけ<第一回アドビ・コンテスト>にて作品 “WARS” が入賞をする。広告制作では<読売新聞広告賞>で銅賞(クリオ賞)を受賞。
アート・プロデューサー
中国民族芸術を日本に紹介する彩鳳会を1991年に設立。在日中国人芸術家たちの公演活動を数多く行い、日本はもとより中国からも高い評価を得ている。1997年、日中国交正常化25周年記念「中央民族楽団」70名の来日公演、2003年「国宝楽団」の招聘公演を成功させる。その他、北京京劇院、中国スーパー雑技団の招聘など20年間に大小200回を越す公演を企画実施している。博物展では2004年中国の「景徳鎮展」「陝西省博物院展」を成功させる。また1996年に本格的シェイクスピア劇団「ASC」の設立にゼネラル・マネージャーとして、同年10月にグロープ座にて「ジュリアス・シーザー」旗揚げ公演をする。その後、東京芸術劇場などで40公演以上を成功させる。
竹林閣
中国、台湾など主に中華圏とアジアを対象とした文化芸術サロン竹林閣を新宿に2010年にオープンさせる[注: 2017年12月に閉鎖、21年4月25日に大久保駅近くで再開]。日本と各国との交流事業、各種セミナーやフォーラムを開催している。
STEP TO ASIA
2011年5月、日本の中小企業向けに海外進出を支援する国際的な人材によるプログラムとして「STEP TO ASIA」を設立。台湾、シンガポール、大連など国際セミナーや、国際文化事業、知的財産権セミナーなどを多彩な活動を開始している。
著書
- 『リーダーの教科書』(長崎出版 2006年11月)
- プライベート・マガジン『簡書』(2013年3月)
受賞歴
- <第一回アドビ・コンテスト>にて作品 “WARS” が入賞(1990年)
- <読売新聞広告賞>銅賞(クリオ賞)を受賞(1990年)
- <ワールド北斎アワード>入賞(2020年)
能楽のシテとワキ
能楽について何も知らないながら、シテとワキという役の分担が明確にあり、それによって流派も分かれることに興味を持った。小説と法律の文章や虚構と実体の違いについて考えるあまり混乱し、そこから脱出しようとして模索するなかで、シテとワキという区分が役に立つような気がしたのだった。さらに遡れば、父が幽界に入ったことが影響しているかもしれない。 以下、日本能楽協会のサイトから抜粋し引用する。
能では主役のことをシテという。能は徹底した「シテ中心主義」で、美しい衣装も面も観客の目を引きつける舞も、ほとんどがシテのものである。また、上で述べた*代表的な役柄もシテが演ずるのがふつうである。そのシテと応対し、シテの演技を引出す役をワキと呼ぶ。すべて現実に生きている成人男子で、面をつけることはない。僧や神官、天皇の臣下などの役が多い。
シテを演ずる人たちのグループ(シテ方)と、ワキを演ずる人たちのグループ(ワキ方)はまったく別のグループで、シテ方の役者がワキを演じたりワキ方の役者がシテを演じたりすることはない。シテ方の役者はシテやその助演的役割のツレを演じるほか、地謡(コーラス)を受け持つ。地謡は、情景や出来事、登場人物たちの心理などをナレーション的に描写するほか、ときにはシテやワキになりかわって彼らのセリフを謡うこともある。
曲によっては子どもが登場することもあり、子方と呼ばれる。子どもの役を演ずるだけでなく、天皇や源義経の役など貴人の役も演ずるのが能の子方の特徴である。たとえば、<船弁慶>の義経はシテやワキが表現する愛情・忠誠心・恨み等々の向かう先のいわばマークとしてのみ存在している。そうした義経の存在感が強くなりすぎぬよう、あえて子方を用いるのである。
*<源氏物語><伊勢物語>などの古典文学に登場する優美な男女の霊、<平家物語>で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊というように幽霊が多い。また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場する。
玄東實さんが語る(2) 金大中大統領
玄東實さんが語る(1)よりつづく
歴史問題と金大統領の名演説
–: 注目を浴びる「歴史の清算」問題をどうみていますか。
玄: この点も個人的な見解ですが、韓国の現代史は日本の戦後と同様に複雑な背景があります。国際政治の思惑に翻弄されてきた、ままならなかった歴史と言えるかもしれません。例えば、8月15日は日本では「終戦記念日」ですが、韓国では「光復節」として日本支配からの解放を意味します。
一方、8月15日を「唐突な解放の日」と解説する韓国の識者もいます。私の考え違いかもしれませんが、“唐突な”との表現には、日本の植民地時代における韓国国民の状況を悲観的にだけ捉えていたのではない感情が見え隠れしてはいないでしょうか。
現在もそうですが、韓国では日本との関係が悪化すると、歴史問題がいつも注目されます。ただ、これは、現在の日本に対する評価とは関係のない文脈で語られていることに注意が必要です。多くの韓国国民は本心では、日本ともっと友好を深めたいと望んでいると思います。
では、歴史の清算問題とは何かという話になります。それは具体的な政治問題の解決もあるでしょうが、むしろ韓国の文化や歴史・思想・哲学に対する自信の回復を指しているのではないか、と私には思えます。つまり、戦火で失われた韓国本来の姿を取り戻したいがために、歴史の清算問題を引き合いに出さざるを得ない、高度な政治的事情があるのではないでしょうか。しかし、そのために歴史問題を持ち出すことは、当然、日本人の感情を強く刺激することになります。
韓国社会は見違えるような発展を実現していますが、戦後の韓国経済は確かに大変な苦労をしてきました。韓国で大ヒットした映画『国際市場で逢いましょう』(2014年公開) を観ていただきたいと思います。韓国が歴史の清算にこだわる背景の一部を感じ取ってもらえるのではないでしょうか。
これらに関して、金大中・元大統領は、日本の大衆文化開放の歴史的意味に触れ、「1500年以上の日韓交流の歴史の中で豊臣秀吉による軍事侵攻(文禄・慶長の役)と戦前の植民地時代を含めても不幸の歴史は40年程度。そのことをもってして、両国の長い友好の歴史を全否定してよいのか」との趣旨の国会演説をしています(1998年10月8日金大中大統領日本国会演説文)。寛容の精神に富む誇り高い内容だと今もって感じます。(以下、同演説文の原稿を参照ください)
日韓両国は現在の状況をもっと肯定的に捉えるべきだと思います。確かに、「親日親韓」の関係はベストなのかもしれませんが、最小限の範囲でもお互いを理解し尊重しようと努力する「知日知韓」の関係を再スタートさせればよいと思います。両国には目に見えない深い絆が既にありますから、次代を担う青年世代においては理解を深め合う作業は難しいことではないでしょう。

個人情報の保護とは
いったい、スマホを多用する現代人に個人情報はあるのだろうか。<サイバー社会>では個人情報が保護されにくい、そもそも保護されない状況があるのではないか。
本日付け朝日新聞の一面トップに掲載された記事<LINE個人情報不備: 中国委託先で閲覧可に>を読んで考えた。2020年6月に改正された個人情報保護法は2年以内に施行というが、記事が指摘する問題は18年8月から発生しているという。
中国というと個人情報どころか人権が保護されない国家と考える一方、自分たちの属する国は欧米と同じようにそれらのものが保護されていると考える人が多いと思う。だが、本当にそうなのだろうか。自分の職場や個人として個人情報をどれだけ意識し保護しているか、少なからず疑問に思うことがある。
玄東實さんが語る(1) 日韓のあいだ
玄東實 アシアナ航空元副社長に聞く【「公明」2021年4月号掲載記事より】
- 信頼関係を深めて開く日韓友好の扉
- “知日知韓”で互いの違いと良さを理解し、3000万人の交流人口めざす
言論NPOと韓国の東アジア研究院(EAI)が2020年10月に発表した第7回日韓共同世論調査によると、韓国国民の71.6%が日本の印象は「良くない」と答えた。日本国民の韓国に対する印象も悪化した。外交樹立から56年、日韓関係はかつてなく両国関係は悪いと評されるも、在日韓国人二世として初めて韓国上場企業の副社長を務めた玄東實氏には「日韓はむしろ真の友好関係を築ける時代に向かっている」と語る。真意を尋ねた。
本名を名乗り自分らしく生きる
–: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。
玄: 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。
–: 東京生まれと伺いました。
玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。
在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。
もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。
最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。
修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。
そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。
–: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。
玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。
事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。
大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。
–: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。
玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。
名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事
コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。
“外国”になった韓国
–: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。
玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。
背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。
国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。
その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。
韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。
ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。
–: 金大中元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。
玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。
元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。
私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。
特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。
元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。
玄東實さんが語る(2)へつづく
バロック音楽を聴く
朝早く起きて、NHK-FMのバロック音楽を聴いている。1960年代末に高校3年から再受験生だったころ毎朝聴いた番組だ。解説は吉田秀和さん(1946-2012)だったと思う。あのころの自分はもういないはずだが、僕の記憶のなかに生きているのではないか。当時、毎朝2時間ほどかけて自宅から石神井公園まで往復するのを日課にしていた。