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年齢という虚数

長年、日本の教育制度のなかで育(はぐく)まれ、テレビやスマホを通じて選別された情報に浸(つ)かるなか、僕たちは多様な形を持つ虚構のなかでくらしている。虚構を構成する最大要素の一つである数字を虚数(imaginary number)と呼ぶことにしたい。

不偏不党という虚構のメディアが拠(よ)って立つのがまさに数字であり、それはいくら客観的に見えても常に何らかの処理を受け操作された虚数である。最近では日々コロナ禍にまつわる感染者数やワクチン接種に関する虚数を報じ、人々がそれに一喜一憂しているように見える。僕もその一人である。

さまざまな虚数が氾濫しているが、その最たるものが年齢であろう。きょう誕生日を迎え71歳になった機会にあらためて年齢について考える。年齢とともに余計な制約がふえてくる。腰痛、痛風、しびれなど、経年変化による傷(いた)みもふえた。「断捨離」だ「エンディング」だと周辺もかまびすしい。

これらを操作しているのが年齢という指標で、人々と社会を操作する虚数である。それに対抗すべく、試みに70歳≡0歳という合同数を導入したい。還暦のように誰にも適用できるものではなく、その意思と最低限の体力がなければ成り立たない。平均余命に少し加え、あと20年生きるとして、これからの成長を楽しみたいと思う。

御岳山から大岳山に向かう急峻にて

1971-2030

時期自分史 1971-2030
1971-73年信山社(神保町)に勤務; Reclam Verlag(ドイツ出版社)の書籍輸入業務・在庫管理担当; 朝鮮高校の卒業生(少年の父が採用に関与)から約2ヵ月朝鮮語を習う[<韓国語>という言葉は当時一般的でない]
1973-77年大韓航空東京支店(丸ノ内)の日本地域本部に勤務、初め2ヵ月ほど毎朝1時間前に出勤(上司から平壌放送なまりの抑揚を指摘され韓国語の発音矯正のため); 73年12月서울・済州島に出張、年に1度は서울に行った; 75年冬に三峰口から雲取山(山荘泊)に登山、水根に下り無三庵むぞうあんにて篠田先生ご夫妻と出会う
1977-80年国際開発(麹町、フィリピン・スペインほか外国不定期航空会社の総代理店)に勤務; 79年10月に結婚; 日米会話学院(四ツ谷)通訳コース基礎科に4ヵ月在籍; 77-96年のあいだ韓国関連の仕事から遠ざかった
1980-83年サイマル・インターナショナル国際会議部(溜池)に勤務; 81年夏に離婚; 82年の歴史教科書問題に際し韓国の中学校「国史」翻訳グループを結成し完訳; 「ミンカブァン自伝」の翻訳に着手; 83年に退職し近所の中高生に英語を教える; 知人の事務所(浅草橋)でバイト; 韓国文化院発行「韓国文化」特集の翻訳(無報酬)
1984-93年ジャパンエコー社に勤務、Tsukuba Expo ’85(海外プレスセンターの運営)/Tokyo summit ’86/’93 プレス資料の編集; 85年に再婚; NHK Radio Japan 韓国語放送モニター(86-87); 外務省に出向、在トロント日本総領事館広報センターに配属(87-89); Osaka Expo ’90 に出向(89-90); 放送大学教養学部(85-93 卒論: 自治体広報資料の多言語化)
1993-96年US-Japan Foundation(米国ニューヨーク州ニューヨーク市に本部を置く民間財団)東京事務所に勤務、日米間の政策研究・教育交流プログラムほか支援業務; 青山学院大学大学院国際政治学修士課程(93-95 修論: 19世紀後半の国際化論議と内地雑居論)
1996-2010年国際文化フォーラムに勤務; 日本の高等学校における韓国朝鮮語教育調査(99 韓国語併記)の結果をふまえ韓国文化院の支援を得て教員ネットワーク組織を結成(99)天理大学・神田外語大学に働きかけ韓国語・朝鮮語の教員免許取得のための講習を開講(第1期:01-03 第2期:06-08)、第1期講習をふまえ日本の大学等における韓国朝鮮語教育の実態調査を実施(02-05 韓国語版合冊、최정순・韓国大使館教育部ほか支援); 日本の高等学校の日本史教科書の韓国語訳校閲(05-06);『메구미[めぐみ]』韓国語訳校閲(07-08); クムホ・アシアナ杯高校生大会の運営(08-20 アシアナ航空・韓国文化院主催)、ハンガンネット[韓国語講師・教室ネットワーク]のサイト運営(09-20); 上海人から約2ヵ月上海語を習う(09); 2010年3月に定年退職
2010-20年アスク(10-11 韓国語関連書籍の編集)、ニッポンドットコム財団(11-12 翻訳チェック校閲)、アシアナ・スタッフ・サービス(13-15 アカデミー・サイト運営)に勤務; 篠田先生ご夫妻逝く(14);『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 大韓帝国最後の皇太子・英親王の許婚者』(14 서울 知識工作所 校閲・写真提供); DEKIRU(15-18 資金移動業)に勤務; 日本技術貿易(18-19 特許翻訳文のチェック校閲)に勤務; 在大阪韓国総領事오태규関西滞在記(18-21 在大阪韓国総領事오태규の投稿サイト制作運営); World Family Inc (19- )に勤務; 伊藤塾の行政書士試験講座を受講(19-20); 少年の父逝く(19); 「いつか名もないうをになる」執筆(20)
2021-30年辰巳法律研究所の行政書士試験講座を受講(21); 大坪洋一の全作品が問う「韓国併合とは何だったのか」のサイト運営(21); 行政書士試験に合格(22);
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すべての制作運営サイトを削除(29); 死去(30)

MTB alone

MTBを始めて7年目、初めてひとりで山へ行った。いつも友人と二人で、行き先もコースも彼まかせだったのに、その彼が体調をくずし、行けなくなったのだ。これまでは中止にしたが、今回は試しにひとりで行くことにした。何度も行ったことのある場所だったのだが、

ひとりと二人ではまったく違う。バランスを失って転倒しても笑う奴がいないから、痛みと衝撃をひとりで抱え込むしかない。道の選択も自分だが、方向感覚が劣る僕は、案の定、道を誤った。日の射さない急峻にさしかかると、熊に遭ったらどうしよう、という不安がふくらむ。その恐怖心を追い払おうとして、ひたすらペダルをこぎ、自転車を押して登り、冷風を切って林道を下った。脚の筋肉がつり膝も痛んで、いつになく疲れた。駐車場にたどり着いてようやく緊張がほどけ、しばらくして安堵感に包まれた。

小説「福澤諭吉」

『福澤諭吉』(四六判 総1050ページ)全3巻は2004年8月から翌年6月に作品社から発行されている。歴史小説のジャンルに分類されるが、資料にもとづき作家の想像力で福澤諭吉の生涯を活写している。著者の岳真也(1947-)は福澤諭吉(1835-1901)以外に中江兆民(1847-1901)や小栗忠順(ただまさ 1827-1868)ほかの伝記も著わしており、世間に流布している検定教科書の定見に囚われず、独自の視点にもとづいて歴史上の人物を描く作家のようだ。何冊か英文の翻訳書も出している。著者自身慶應義塾の出身でもある。

この伝記を通じて、勝海舟(1823-99)、西郷隆盛(1828-77)、小栗忠順[上野介]、井上馨(1836-1915)、榎本武揚(1836-1908)、森林太郎[鷗外](1862-1922)、北里柴三郎(1853-1931)など、多くの人物について僕が知らなかったか誤解していた面を知り、大いに識見を新たにした。特に、勝海舟に対する福澤(著者)の批判は痛烈であり、小栗忠順に非業の刑死を齎(もたら)した一因も勝海舟にあったろうとしている。咸臨丸の艦長とか江戸城の無血開城など美談が多く伝わっているが、脚色されたもののようだ。

福澤諭吉は小栗上野介を高く評価していたようだ。東郷平八郎(1848-1934)も、横須賀造船所(後の海軍工廠)の建設に尽力した小栗上野介を尊敬していたらしく、日露戦争後に小栗の遺児の國子と夫と息子を自邸に招き、國子に向かって父上のお礼を伝えたという逸話は印象的だ。戦勝を可能にしたのは海軍工廠が造った軍艦のお蔭だという意味があったようだ。金玉均(1851-94)と福澤諭吉との関係や朝鮮からの留学生と慶應義塾との関係もよく描いている。

駅舎の風景

2021年1月下旬のある朝と2月の複数の日の夕方、S駅のプラットフォームから撮った写真だ。僕はこの光景がことのほか好きなようだ。一昔前の駅舎の造りがなつかしく思われるし、その柱や屋根越しに見る空がどこか気持ちを落ちつかせてくれる。写真を繰り返し見ていると、いろんな情景や思い出が浮かんでくるし、空想の世界に飛ぶこともできる。

駅舎の情景にもときどき感動させられる。写真では、西の空の上方に輪郭の曖昧な巨大なムササビのような形の雲がかかっている。その雲が夕陽を受けて不気味に輝いているのが気になって仕方なかった。

この鉄路の沿線に引っ越して35年になる。その間5年ほどは他の地域で過ごしたから、約30年ほぼ毎日この光景を見ていることになる。あと何年見られるかわからないが、僕が見ている間は変わらないでほしい。

transborder 越境

映画「心の傷を(いや)すということ」をみた。昨年NHKが制作したドラマの劇場版だ。

20年余り日本について学び日本社会になじもうとして日本語を流暢(りゅうちょう)に話し、日本人のようになろうと努力し、いまは韓国人であることを自覚するようになったという韓国人と二人でみた。この一文の「日本」を「韓国」に、「韓国」を「日本」に置き換えると、僕の生きざまに重なるように思う。LGBT の transgender になぞらえれば transborder, transboundary [国境を越えた/越境の]ということだろう。

この用語と関連づけることで「在日」という言葉に広がりを持たせることができるかもしれない、この映画を通じて得た最大の収穫だ。そして、この広がりは「在日」にとどまらないはずだ。ふと、70年前後にあった「辺境」という雑誌を思い出した。この誌名は pioneer と訳されていたと記憶する。

二百席以上ある映画館にたった十人しかいない、その中ほどに二人隣り合ってすわっていた。映画に似たような場面があった。後に妻となる終子と主人公は在日コリアン同士だが、地下を列車が通る映画館の一席置いた同じ席で「東京物語」(1953)を二度みている。二度目は聞きのがした原節子(1920-2015)のせりふを聞くためだったが、やはり列車の通過と重なり騒音で聞き取れない。この偶然が二人を近づける。

映画の主人公は(あん)(通名は安田)という在日で、小学校4年生のとき(Osaka Expoのうちわが映っていたので1970年だろう)、在日だと知らされる。鏡台の引き出しにあった母親の外国人登録証を見て母親に尋ね、両親とも韓国籍で彼を含む三人兄弟も在日韓国人だと伝えられる。長男は東京の大学に進み、原子物理学を専攻する父親自慢の秀才である。次男の主人公も秀才で日本人の友人とともに地元の大学の医学部に進み、親に相談することなく精神科医になる。高校生のころから彼が(した)ってやまなかった恩師に導かれたのだ。

主人公が在日だったこと、彼の両親と兄弟が在日だということが映画全篇を通して訴え続けられる。在日という視座から日本社会をみた映画だということもできる。10歳のころからずっと在日だった彼は単なる若き精神科医ではなく、「在日の精神科医」だったのだ。在日が「在日の—」なのは当然と考える人もいるだろうが、そういう意味ではない。「在日の精神科医」だからこそみえる世界があり、そのことが「心の傷をいやす」ことと大いに関係している、[越境]が創造的に作用していると考えた。

1996年、主人公は精神科医として阪神淡路大震災に遭遇する。被災者でごった返す街なかや病院、体育館のなかを神経科の安という名札を付けて歩く姿は、彼を含む人々の苦悩のなかで模索する悩める人そのものだ。その心労が(たた)ったかのように彼は若くしてガンに倒れる。いかにも残酷で理不尽(りふじん)で腹立たしい。その理不尽さが悲しかった、(なみだ)がにじんでマスクにしみた。隣りに僕が泪したことを知る人がいてよかった。

サイト名の変更

サイト名を shawoguri.wordpress.com から goolees.blog に変更しました。これから20年余り、このドメインを運営したいと考えています。日々新たにといいますが、週一更新をめどに気負うことなく続けられればと思います。応援よろしくお願いします。

2020年12月青梅(撮影: joyscycle)

memo:自閉する意識

毎日通う事務所の入っている雑居ビルの向かい側に繁盛しているお店がある。いつも活気に溢れていて、この街になくてはならない風景の一つになっている。朝から晩までひっきりなしに客が来る。遠くからの人も多く自転車で来る人も多い。多くの客が外国人で家庭用から業務用まで日々必要な品を買っている。定期的に違法駐車する外交官ナンバーの車もある。

お店とビルの間に一方通行の道路が通っている。その店の軽トラックが1台か2台、我がもの顔でその道路に違法駐車をして荷物の上げ下ろしをする。道路に張り出した低い棚に商品がうずたかく積まれ、店の前の少し空いたスペースでは店員が荷物の整理をしているから、客が自転車を停めるスペースはほとんどない。客たちは当然のことのように、店の向かい側の雑居ビルの前に駐輪する。

僕はそのビルに出入りするたびに、駐車禁止の赤いコーンの前に停められた自転車をよけて通らなければならない。十歩ぐらい余計に歩けばいいのだが、それが気に入らない。両手が空いているときは、自転車を道路の端に移動して重ねるようにする。小さな嫌がらせだが、あまり効果がない。言葉が通じないというよりも、そもそも規範意識が異なっているようなのだ。

大した問題ではないし、こんな瑣末なことを気にする人がおかしいという人も少なくない、いや多くの人々はそう考えるだろう。だが、僕は気に入らない、僕の規範意識が許さないのだ。自転車を停める人だけではない、こういう状況を当然と言わんばかりに商売している向かい側の店の店員と経営者の姿勢が気に入らない。そこを利用し自転車を違法駐輪する人々が気に入らないのだ。

数年前、この店の前の路上で自転車と歩行者の事故が起きた。自転車は逃亡したから捕まらない。被害者は死亡したと記憶しているが、誰も責任をとらない。自分たちに責任があろうはずはないと考えている。実際には、上述の自動車と自転車の違法駐車が招いた二次災害と考えられるのだが。

B社ファンの反論

12/28付け投稿「B社製高級トースター」に対する反論をいただいたので、以下に掲載します。なるほど、こういう考え方もあるのだな、と思ったので。

モノが10年当たり前に壊れずに動くということに電化製品の価値を見出す時代から、モノそのものにさらに付加価値を持たせることを重視する時代に変わったのだと思う。B社製品の値段が高いのは他の電化製品より物持ちがいいからではないのではないか。

B社のトースターは、コンビニやスーパーの食パンをホテルの焼き立てパンに高めてくれることに価値を置いているし、B社の電子レンジはシンプルなデザインで、キッチンがオシャレ空間になる演出をしてくれるし、音がすてきで聞いていて楽しいし、ライトも演出になる。

従来、たくさん機能が付いていますとか、壊れませんとか、容量が大きいですとかが電子レンジの価値だったのに対し、オシャレだから部屋に置きたいというのが、B社の電子レンジの価値なのだと思う。B社の空気清浄機も、扇風機も、サーキュレーターも、ポットも持っているほどのB社ファンなのです、私は。

これらを置くだけで、部屋が「すてき空間」になると思っていて、そういう家電は既存の大手メーカーには作れなかったジャンルで、それを成し遂げてくれたB社というスタートアップの会社の製品を買う形で、出資しているつもりでいます。

よく考えると、2年で壊れることに異を唱えたり(スタートアップだから仕方がないと思うユーザーもいると思う)、B社のサービス体制に既存大手と同じサービス体制を求めるユーザーニーズがあるということは、B社がスタートアップから大手既存家電メーカーの仲間入りをするために必要なことだと思うから、B社に対して批判的な顧客も必要だと思う。