Song of the Birds

三週間あまり来る日も来る日もウクライナの惨状を見るにつけ、暗澹とした気持ちになり、自分の非力さを思い知らされますが、こんなときだからこそ、カザルスの「鳥の歌」を思い出します。

Casals Plays the Song of the Birds at UN in 1971

MTBで都心を走る

1年以上乗らなかった自転車に乗り、自宅から新大久保まで往復2時間半、ほとんど休むことなく走った。心地よい疲れとあしの筋肉痛が残る。中原街道>天現寺>外苑西通り>明治通り>大久保通り>靖国通り>新宿通り>四谷見附>外堀通り>麻布通り>桜田通り>国道1号>中原街道

走り始めて10分ほどで胸に痛みを覚えた。MTB山行のときと同じ症状だ。公道の長い坂道を登るのは案外きつい。山道とは違った緊張も伴う。エンジン音をうならしてせっするように疾駆しっくするクルマに3台遭遇そうぐうした。その直後に路面の白い自転車マークが目に入ると、いかにもむなしい。自転車が脇道わきみちに追いやられ、それが当然のこととされている。どこかおかしい。

ここ数年、自転車の前か後ろに荷車を付けた宅配便の姿を見るようになった。1970年ごろまで業務用の実用車が広く普及していて、リアカーを引いているのをよく見かけた。60年代前半には、東京の杉並区あたりでも野菜を積んだオート三輪車が走り、酒屋のご用聞きや豆腐屋、牛乳配達などが堅牢けんろうで重そうな自転車に乗って住宅地を走り回っていた。いまは昔の話だが、荷車を付けた宅配業者を見ると思い出す。

1983年に自転車でヨーロッパを旅した友人がよく話す。自転車専用のレーンと信号機を備えたヨーロッパの道路がうらやましい、と。自転車が貴族の遊びとして始まった英仏に対し、労働者の輸送手段として実用車が先行した日本や中国。これらの地域では自転車が追いやられクルマが跋扈ばっこしている。なぜだろうか。

歩道では、いまや小径車や子どもを前後に載せた電動自転車が我が物顔で走っている。歩道を歩きながら思うのは、結局、よりスピードが速く、大きくて重い車両(vehicles)が幅をきかせ、弱小な車両を抑え込んでいる、ということだ。自転車に愛着を持つ者だから言うのではない。この国の道路事情はどこかおかしい、道にはずれているのではないか。

a friend

韓国の友人が、退官記念に出版されたという書籍と僕が好きなコーヒー豆を誕生祝いに送ってくれた。”한국어교육의 현재와 미래(韓国語教育の現在と未来)”と題された本は、彼の大学関係者が編集し、図書出版夏雨ハウが出版してくれたという。韓国のブックデザインは優れたものが多いが、この本もよくできている。題字が活版印刷さながら盛り上がっているのがなつかしい。

友人とは何でも話せるのに、門外漢の僕にはこの本の学術的な価値はよくわからない。彼が日本に来ると、一緒に山に登り、MTBで山中を走り、驟雨しゅううのなか高山のいただきでマッコリを飲み、全裸で渓谷に入るなど、少年に返れるのだ。韓国語でいう 불알プラル 친구チング のようなものだろうか。

酒豪といってよい彼と、あまり酒を飲めない僕が長年付き合っているのを不思議に思うかもしれない。いい意味の遊び仲間なのだろう。写真はどれも彼の一面をうつしている。

Players and observers

민갑완ミンカブァン(1897-1968)の関連年表(1875-2014)を oguris.blog に再掲した。タイトルは Korea and Imperial Japan とし、1875年8月の雲揚うんよう号事件から始めた。この事件が明治日本すなわち大日本帝國の対朝鮮外交を象徴していると考えたからだ。いわゆる「砲艦ほうかん外交」であり、パワーポリティックスである。

現在のロシアによるウクライナ侵攻に向けた動き、中国による台湾侵攻をめぐる動向も類似している。欧米各国も同じ根っこを共有している。こんなことを書くと、150年も昔の話が現在と同じだなんて、といぶかしく思うだろうが、それを承知のうえでえて言うのである。

砲艦外交を正当化する根拠は国際法であり、19世紀後半においては萬國ばんこく公法とも呼ばれた。近代ヨーロッパにおいて形成されたものだから、ロシアや中国と対立しているかに見える欧米諸国やそれを模倣した日本も同じ枠組みのなかで動いている。

日本の場合は砲艦ならぬ<傍観>ないし<望艦>であろう。官僚の作成した原稿を読み上げる首相や閣僚の姿を見るにつけ、何とも情けない思いに陥るのは僕だけだろうか。

The Economist Feb 9 2022: Yuval Noah Harari Argues


郷愁 nostalgia(2)

萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」冬の部の冒頭部分を引用します。与謝蕪村よさのぶそん(1716-1784)の写実主義を評価した正岡子規とは違った観点から、蕪村の抒情性を高く評価した詩論です。「冬の部」の初出は雑誌「生理 5」(1935年2月)

いかのぼりきのふの空のりどころ

北風の吹く冬の空に、たこが一つあがっている。その同じ冬の空に、昨日きのふもまたたこあがっていた。蕭条しょうじょうとした冬の季節。こおったにぶい日ざしの中を、悲しくさけんで吹きまく風。硝子ガラスのように冷たい青空。その青空の上にうかんで、昨日きのふ今日けふも、さびしい一つのたこあがっている。飄々ひょうひょうとしてうなりながら、無限に高く穹窿きゅうりゅうの上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶ついおくただよっている!

この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクがあらわれている。「きのふの空のりどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に一つの同じたこあがっている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断ふだんに悲しく寂しげに穹窿きゅうりゅうの上に実在しているのである。

こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句ひょうくとして、芭蕉ばしょう(1644-94)の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」というごとき語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情じょじょう詩の手法を持っていたということにある。 

参考: 正岡子規「俳人蕪村」

郷愁 nostalgia

萩原朔太郎が蕪村(1716-1784)を再評価した「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。前回読んだのは高三のときだったろう。もう50年以上前のことだ。朔太郎は序文で次のように述べている。

…著者は昔から蕪村を好み蕪村の句を愛誦あいしょうしていた。しかるに従来流布るふしている蕪村論は全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯しゅこうさせるに足るものがない。よってみずから筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思う…蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。

著者のいう「蕪村俳句の本質」こそ<郷愁の詩人>なのである。それはとりもなおさず詩人朔太郎(1886-1942)の本質であろう。

高三の夏休み前に朔太郎全集(新潮社版)を購入し、夏休みに入るや母には受験勉強だと言って、背表紙が革製の全集のうち二冊と数十冊の文庫本を持ち、鈍行の夜汽車を乗り継いで岡山県の中国山系にある鉱山町に向かった。そこに単身赴任していた父の家に下宿し、夏休みのほとんどを好きな本の世界に没頭した。蕪村に関心を持ったのは朔太郎の影響だったろう。

一浪して大学に入ったものの、学生でいることに意義を見出せないまま不登校となった。70年前後から在日や隣国に関心を寄せる。朝鮮語を学ぼうと思ったが、気に入った学校を見つけられなかった。当時、韓国語という名称は使われておらず、どこも政治的な傾向を帯びていたように思う。いい加減な僕は、文革の影響もあって内山書店の奥で中国語を学ぶことにした。朝鮮語以上に政治的な選択をしたわけだ。案の定、3ヵ月ほどでやめてしまった。

週刊朝日(72.4.21)に김지하キムジハの「蜚語ひご」が掲載され、むさぼるように読んだ記憶がある。翻訳で読んでも行間にみなぎる力に圧倒され、韓国の学生運動に日本のそれにない社会性を感じた。当時日本橋にあった三中堂で原書を購入したが、歯が立たなかった。延世大学語学堂の英語で書かれたテキストを入手し、独学で勉強した。大学書林の「朝鮮語の基礎」も通読した。発音はKBSと平壌ピョンヤン放送を聴いて覚えた。

73年に韓国の航空会社の東京支店に入社したが、日本人で韓国語ができるのは僕だけだったと思う。出社した日に上司に呼ばれ、北のなまりを指摘され狼狽ろうばいした。当時はスパイといわれるに等しかったからだ。金大中キムデジュン事件(73年)や文世光ムンセグァン事件(74年)が継起けいきし、日本における韓国イメージは最悪だった時期である。なぜ、あの時期に韓国に引かれたのだろう。振り返ってもよくわからないのだ。

出身地や学歴、出自や階層、所属団体などにもとづいて差別する社会に対する反発があったことは間違いないが、なぜそれが隣国に向かったのか定かではない。幼少期を過ごした鉱山町への郷愁だろうか。東北地方の水沢で過ごした2年間に対する郷愁だろうか。アイデンティティの喪失感そうしつかんにともなうあせりから在日に親近感を覚えたのだろうか。

酒を友に4.2万kmの自転車旅1982-83/89年

中学時代の同級生にテントと自転車で地球一周に相当する距離を走った男がいます。いまから40年前、1982年に北米大陸を横断し(約150日)、83年に入ってヨーロッパ(約300日)と北アフリカ(約70日)を周遊し、香港(5日)・台湾(約20日)を経て帰国しました。走行距離は3.1万キロだといいます。

1989年には、地球一周に相当する4万キロを走破したいとの望みを達すべく、日本列島を約160日かけて自転車で一周(1.1万キロ)しました。この旅を終えたとき、彼は40歳になろうとしていました。1980年代、スマホもラインもなかった時代のことです。彼が一日も欠かさなかったのはブログではなく各地のビールやワイン、酒や焼酎でした。各地で酒を酌み交わし英語と現地語、あるいは日本語で話した相手は数十人、いや百人を超えるでしょう。

自転車たびを記録しつづけた手帳

彼は5年ほど前に数年かけて手書きの手帳と写真をもとにブログを執筆しました。PCを使わないので、すべてスマホ入力です。いま、その文章をもとに縦書き文庫に執筆中で、北米大陸横断を終え、ヨーロッパと北アフリカを走っているところ、まだまだ続きます。タイトルは地球一周分にふさわしく長くなりました。40年前、旅の仕方も通信手段もまったく異次元の世界です。

自転車たび1982-83/北米・欧州・北アフリカ・香港・台湾

走った国と地域は順に-米国-カナダ-英国-スペイン-ポルトガル-モロッコ-アルジェリア-チュニジア-イタリア-ギリシャ-ブルガリア-ユーゴスラビア-ハンガリー-オーストリア-スイス-西ドイツ-デンマーク-スウェーデン-ノルウェー-オランダ-ベルギー-フランス-香港-台湾-日本、1980年代、スマホもインターネットもなかった時代の700日、のどかな自転車たびをお楽しみください。

蛇足(だそく)ながら、当初はアフリカに行く予定はなかったようです。82年12月、ポルトガルに滞在していた寒さ嫌いの彼はアフリカに行けば暖かいだろうと信じ、フェリーに乗ってモロッコへ行きました。期待に反し、そこも冬だったとか…(わら)うに笑えない話しです。

日本のえと(干支、兄弟)

ことしは寅年とらどし、十干十二支によれば壬寅ジンイン(임인)で、九星では五黄ごおうにあたるそうです。壬寅を<みずのえとら>、訓読みで干支とあることは兄弟を<えと>と読ませるのもむずかしい。比較しやすいように簡単な表を作りました↓。韓国では「黒い虎」年というようです(みずのえ=黒)。

日本のえと(兄弟)

兄弟(えと)と九星

スマホで見るときは、画面をヨコに回転してくださいね。

https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/968828.html

母方の祖父

上野駅周辺を歩いていると、いつしか70年代の서울の光景と二重映しになる。その記憶のさらに遠くに母方の祖父の姿が浮かぶ。

[祖父は孫のなかでも僕を特にかわいがってくれた。母が末娘だったからだろうか。ときどき家に来ては庭の草取りをし、垣根かきねのヒバをってくれた。高校受験のためA市に行ったのも祖父と二人だった。最後の蒸気機関車の旅だった。汽車がトンネルに入るとすすが入ってきて、祖父があわてて窓枠をおろした。あのときの祖父の笑顔、煤でざらざらした木の窓枠、学生服の袖口から出た白いシャツ、汽笛の音のなかにそんな映像が浮かぶ。地方の農村で育った祖父は若いころ田畑を処分して夫妻で上京し、上野駅構内でスリに襲われて、全財産を失った。途方とほうにくれた祖父はバナナのたたき売りから始め、上野のほおずき市や植木市を転々として、もうけの多い植木と生花商に落ち着いた。一緒にふろに入ると、かめの子たわしでごしごし背中を洗わされた。どんなに力を入れても痛いと言わない。よく笑いながら僕をしかったが、僕も笑っている。そんな祖父と目の前の老人がどこかでつながっている]

1932年に完成した上野駅の広小路口駅舎

「無宗教」という宗教性

川村元気氏(1979-)の『神曲』(新潮社 2021年11月)に関するインタビュー記事を読んだ。映画監督であり脚本作家であり小説家である同氏が宗教をテーマに父親・母親・娘という三者の相異なる視点から描いた作品のようだ。

この家族には、不慮の死というには余りに悲惨な死に方をした息子がいた。父親は息子がほかの小学生とともに殺された事件の現場にいたが、何もできなかった。そのことをいつまでも妻と娘に責められるのだろう。

記事を読んで、現代日本社会の様相を鋭く分析していると思った。著者は、父親から徹底した映画教育を受け、母親からキリスト教という信仰の影響を強く受けているようだ。幼いころから聖書を繰り返し読み、その物語が著者の血肉になっているとも分析している。よく自分自身を省察していると思う。

この作品を読んでみようか、と思うのは、僕が日本社会を「無宗教性」が支配する社会として捉えるからで、その点で著者の見方と共通するところがあると考えている。Kポップのもつ世界性の基盤にキリスト教があるのではないかという著者の考察も興味深い。

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