平均余命18.55年

もうすぐ65歳、平均余命18.55年だ。と云ったところで何も変わることはない。この間に何をしようというのか。いや、何もできやしない。これまでどおり怠惰な日々を送るだけだろう。

そのなかで唯一後世に遺せるものがミンカブァン自伝の日本語訳だろうか。だが、今ひとつ馬力が掛からない。おい、おまえ、一体どうしたんだ。

(上の文章を書いて約2ヵ月が経った)

シェイクスピアが現代に蘇って1人の少年と接触するという設定の韓国の伝記童話を翻訳することになった。沙翁は当然のように少年と韓国語でやり取りする。それを日本語に翻訳するのだが、いくつか問題がある。

低山とMTB

週末、中学時代の友人Hと二人で東京西郊の丘陵や低山に行くようになって数ヵ月が経った。MTBと山行はまったく異なるものの、低山の魅力に変わりはない。

8月には娘と二人で標高3千m余りの木曾御嶽山に登った。この山の魅力についてはすでに投稿したとおりだ。

こうして僕は高山と低山いずれにも愛着をもつようになった。そして「日本百名山」に代表される作られた価値観を批判する。

写真は東京西端にある刈寄(かりよせ)山の山頂、眺望もほとんどない。というより、自転車を押し上げて辿りついたときは疲れていて、景色を楽しむ余裕がなかった。標高687m

 

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木曾御嶽の魅力

約20年ぶりに二度目の登山を果たした。前回は感じなかった御嶽山の魔力というか魅力にとり憑かれたようだ。

いろいろな要素があるが、活火山という性質が大きいように思う。九合目近くにある奥の院から見た噴気とその音が忘れられない。

御嶽教という名前があるように、信仰の対象になっていることも大きい。山塊の巨大さと火山活動が、御嶽を生命体として捉えさせるのだろう。

夜行列車

夜行列車という名称が、いかにも古めかしい響きを持つようになって久しい。鈍行が普通になり、各駅がローカルになった。朔太郎がアフォリズムで書いたような感慨を僕が抱くようになった。これを老いというのだろう。

ゴムまりのような乳房と表現した朔太郎が懐かしく感じられる今宵、僕は夜行列車に乗って信仰の山に行く。

くだらない社会

満席の列車で、3人掛けの座席を2人で占有している奴がいた。何人かの人が座らせてくれるように頼んだが、嘘をついて座らせない。車掌に尋ねられてもごまかしてふてぶてしく寝ている。くだらない奴らだと思うが、みな彼らの不正を追及しようとしない。僕も結局はその1人になってしまった。落ちぶれたもんだ。

連中がくだらないのではない。彼らのような反社会的な者を跋扈させている社会がくだらないのだ。彼らはそんな社会の一員であるにすぎない。

公衆電話

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20年ほど前までテレフォンカードを持っていればどこでも電話を掛けることができた。いまカードは無用となった。一体この変化は何なのだろう。単に通信手段の変化という程度のものではない。

上野駅近くの地下道に1台だけ置かれた公衆電話、かつては左右に何台か並んでいたに違いない。公衆電話が主たる通信手段だった時代が、10年ほど前まであったのだ。

ミンカブァンという韓国人女性

ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)という韓国人女性をご存じですか。韓国ではほとんど忘れられた人ですから、日本でご存じの方は少ないと思います。その女性の自伝が50年ぶりに韓国で復刊されました。

カブァンの生涯は次のとおりです。( )内は陰暦-
——————————.,
1897年10月20日 カブァン、ソウル笠洞で生まれる(9月25日)
1905年11月17日 第2次日韓協約調印、叔父の閔泳煥、抗議の自殺
1907年3月14日 初揀擇の儀(2月1日、徳寿宮)、皇太子妃候補に
1908年1月23日 第2回揀擇の儀、婚約指輪が届く(1907年12月20日)
1910年8月22日 韓国併合される
1916年8月3日 イウンと梨本宮方子の婚約、日本の新聞に発表される
1918年2月13日 カブァンとイウンの婚約、破棄される(1918年1月3日)
1918年7月5日 祖母死去(5月27日)
1919年1月4日 父閔泳敦死去(1918年12月3日)
1920年4月28日 イウンと梨本宮方子、結婚する
1920年7月22日 カブァン、弟チョネンを連れ仁川を出航、上海に亡命する
1920年 東亜飯店[南京東路]に約3ヵ月滞在する
1920年10月 フランス租界宝裕里に移る
1921年(?) カブァンとチョネン、晏摩氏女中に入学。3年余り在籍
1924年初め 日本官憲の追跡を恐れ同校を退学、イギリス租界山海関路に移る
1928年10月22日 母死去(9月9日)
1932年 共同租界愚園路に移る
[年不詳] 共同租界膠州路に移る
1945年8月15日 太平洋戦争終結、朝鮮解放される
1946年6月 カブァンとチョネンの家族、祖国に帰国する
1946年 ソウル駅前大同旅館に滞在する
1947-48年 六親等の弟の家の離れに移り、約2年滞在する
1949-50年 妹マンスンの家に移り、数ヵ月滞在した後、寺洞宮に移る
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発、清州に疎開
1950年 カブァンとチョネンの家族、プサンに移る
1953年7月 朝鮮戦争、停戦協定調印される
1962年10月 自伝『百年恨』出版される
1968年2月5日 チョネン死去(1月7日)
1968年2月18日 カブァン死去(1月20日)
——————————

Interpark(記述に一部誤りもあるが、本の概要を伝えている)

カブァンという韓国人女性は僕にとって特別な存在だ。長年、関連の資料や写真を集めてきた。復刊に際し校正作業を手伝い、写真約20点を提供した。

頑固爺の死

篠田さんが亡くなった。終末期医療を受ける施設に入って間もなく亡くなった。心臓肥大に伴い酸素濃度が低下していたが、すぐには急変しないだろうと聞いていたのに、あっけなく死んでしまった。

最近会っていなかったが、40年に及ぶお付き合いだった。あの頑固爺を喪った喪失感は大きく深い。僕の父と同世代だったが、実父より父親らしい存在だった。

終末期医療のため御岳にある施設に入院したと聞いて、今週末に訪ねるつもりだったのに果たせなかった。最後の挨拶をできなかったことが悔やまれる。

あの頑固爺にもう会えないと思うと、胸苦しく哀しい。彼の訃報に接してから藤村の小諸川旅情の詩の断片が時おり頭の中に浮かぶ。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし…

…きのうまたかくてありけり
きょうもまたかくてありなむ
この命何をあくせく
あすをのみ思いわずらう

…ああ古城何をか語り
岸の波何をか答ふ

——

千曲川旅情の歌 島崎藤村

小諸(こもろ)なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼(ああ)古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(ももとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれい)を繋ぐ

ウェブサイトを作る作業

2014/02/15
きょうも終日ウェブサイトを作る作業に費やした。でもうまくいかなかった。首尾よく更新できていたら、こんな脱力感に襲われることもないのだろうが。

そもそも僕が拘泥しているようなことを気にする人など、ほとんどいないのだ。ちょっとした色合いの違いとかタブ設定など、どうだっていいではないか。なぜ、そういうことにこだわってしまうのだろう。これはもう病気かもしれない。

2014/04/18
きのうきょうと多くの時間をサイトの不具合修正に費やした。幸い修正できたものの誰も評価してくれない作業だろう。

WordPressへの不当なアタック

国外のIPアドレスによるアタックが原因でサーバーに過当な負荷がかかっており、サイトにアクセスできなかったり(エラー表示 P80)、メールを受信できない(エラー表示 P25)などの状態が生じる。

プロバイダのサポート担当者は、よどみない説明をしてくれた。

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