日韓交流3000万人時代が来る

玄東實ヒョンドンシル さんのインタビュー記事(「公明」2021年4月号より転載)

本名を名乗り自分らしく生きる

聞き手: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。

玄東實ヒョンドンシル : 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。

聞き手 : 東京生まれと伺いました。

玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。

在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。

もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。

最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。

修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。

そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。

聞き手: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。

玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。

事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。

大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。

聞き手: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。

玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。

名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三くさかわしょうぞう*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事

コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。

“外国”になった韓国

聞き手: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。

玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。

背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。

国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。

その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。

韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。

ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。

聞き手: 金大中キムデジュン元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。

玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。

元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。

私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。

特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。

元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。

歴史問題と金大統領の名演説

聞き手: 注目を浴びる「歴史の清算」問題をどうみていますか。

玄: この点も個人的な見解ですが、韓国の現代史は日本の戦後と同様に複雑な背景があります。国際政治の思惑に翻弄されてきた、ままならなかった歴史と言えるかもしれません。例えば、8月15日は日本では「終戦記念日」ですが、韓国では「光復節」として日本支配からの解放を意味します。

一方、8月15日を「唐突な解放の日」と解説する韓国の識者もいます。私の考え違いかもしれませんが、“唐突な”との表現には、日本の植民地時代における韓国国民の状況を悲観的にだけ捉えていたのではない感情が見え隠れしてはいないでしょうか。

現在もそうですが、韓国では日本との関係が悪化すると、歴史問題がいつも注目されます。ただ、これは、現在の日本に対する評価とは関係のない文脈で語られていることに注意が必要です。多くの韓国国民は本心では、日本ともっと友好を深めたいと望んでいると思います。

では、歴史の清算問題とは何かという話になります。それは具体的な政治問題の解決もあるでしょうが、むしろ韓国の文化や歴史・思想・哲学に対する自信の回復を指しているのではないか、と私には思えます。つまり、戦火で失われた韓国本来の姿を取り戻したいがために、歴史の清算問題を引き合いに出さざるを得ない、高度な政治的事情があるのではないでしょうか。しかし、そのために歴史問題を持ち出すことは、当然、日本人の感情を強く刺激することになります。

韓国社会は見違えるような発展を実現していますが、戦後の韓国経済は確かに大変な苦労をしてきました。韓国で大ヒットした映画『国際市場で逢いましょう』(2014年公開) を観ていただきたいと思います。韓国が歴史の清算にこだわる背景の一部を感じ取ってもらえるのではないでしょうか。

これらに関して、金大中・元大統領は、日本の大衆文化開放の歴史的意味に触れ、「1500年以上の日韓交流の歴史の中で豊臣秀吉による軍事侵攻(文禄・慶長の役)と戦前の植民地時代を含めても不幸の歴史は40年程度。そのことをもってして、両国の長い友好の歴史を全否定してよいのか」との趣旨の国会演説をしています(1998年10月8日金大中大統領日本国会演説文)。寛容の精神に富む誇り高い内容だと今もって感じます。

日韓両国は現在の状況をもっと肯定的に捉えるべきだと思います。確かに、「親日親韓」の関係はベストなのかもしれませんが、最小限の範囲でもお互いを理解し尊重しようと努力する「知日知韓」の関係を再スタートさせればよいと思います。両国には目に見えない深い絆が既にありますから、次代を担う青年世代においては理解を深め合う作業は難しいことではないでしょう。

日韓交流3000万人は可能

聞き手: 韓国の視点、日本の視点と歴史は見る人の角度で評価が分かれると思います。在日韓国人として両国国民の感情を共有されていると思うのですが、自身の考えを語る難しさを感じるときはありますか。

玄: 歴史を語る際は、共通項を見付ける難しさはあります。しかし、航空業界で日韓をつなぐ仕事に40年以上取り組む中で、自分の考えを発信する上でのもどかしさはありません。むしろ、日本と韓国双方の仲間が力を合わせて実現させたものは数知れません。

先ほど、両国の交流人口は1000万人を超えたと紹介しましたが、その事実自体が日韓の歴史問題は障壁ではないという証左でしょう。日本が嫌いなら、韓国人は旅行に来ないはずです。その逆も同様です。どうして両国を行き来するかと言えば、やはり“楽しいから”に尽きるでしょう。政府の強制で旅行を推奨しているのでなく、韓国人も日本人も自発的に双方を訪問し、お金を使っているのです。これは航空業界に身を置いたからこそ実感できます。

ちなみに、2018年に訪日した韓国人は約754万人で、韓国人口の約15%に相当します。日本で言えば、約2000万人近い観光客が韓国に遊びに来たようなものです。交流が積み重なり、いつしか日韓の交流が3000万人に達する日が来れば、両国は何でも語り合えるような真の友好関係を築ける間柄になると信じています。

コロナ禍で観光交流は停止せざるを得ない状況ですが、交流再開後に向けた手立てを両国政府は知恵を絞るべきです。日韓間は格安航空会社が多く就航したこともあって地方都市からも行き来しやすくなりました。日本と韓国の間に関しては、欧州連合(EU)のように入国審査も廃止するような大胆な観光政策が行われると、3000万人交流も決して夢ではないと思います。

聞き手: 一方、コロナ禍以前から日韓の経済交流は停滞しつつあるようです。

玄: 政府間対話は途絶えた状況かもしれませんが、経済交流は続いています。お互いが協力し合うメリットを、日韓双方の企業人が熟知しているからです。例えば、日韓・韓日経済協会の交流事業はコロナ禍でも切れ目なしで連携を続けています。

私も知って驚いたのですが、日韓の企業が第三国で共同実施している経済プロジェクトは累計で約26兆5000億円に達しています。日韓の文化の近さが、ここでも効果を発揮しているように思えてなりません。

ちなみに、日本経済の精神は韓国企業にも受け継がれ、世界を代表するIT企業へ成長したサムスン・グループも創業当初は日本から刺激を得ていました。サムスン創業者の秉喆ビョンチョルさんは、毎年末の1ヵ月間を日本で過ごし、日本社会を視察することが慣例でした。日本で見聞きした内容を「東京構想」名付けて事業に生かしたそうです。

政治家像を変えた草川昭三氏との出会い

聞き手: 故草川くさかわ昭三しょうぞう顧問との交流について教えてもらえますか。

玄: アシアナ航空の名古屋支店長時代のころです。1995年の支店移転の記念行事として、衆院議員だった草川さんに駄目元でテープカットをお願いしたのですが、激務の合間を縫って駆け付けてくださいました。

草川さんが在日外国人に対する差別撤廃や、法的地位向上に全力で取り組んでいたことは存じ上げていました。特に、第2次大戦敗戦時にサハリンに残された残留韓国人の帰国支援は有名でした。草川さんは1982年の衆院予算委員会で戦時中、日本人として炭鉱などで労働していた韓(朝鮮)半島出身者らは望郷の念を抱いているにもかかわらず、帰国の手段がないと訴え、鈴木善幸首相から「粘り強く、あらゆる観点から努力する」との答弁を引き出しています。草川さんの行動は、日韓友好の基礎づくりそのものでした。

東京でマーケティング部長をしていた時ですが、大きな障壁にぶつかり、草川さんに相談したことがありました。「日韓の親善友好にプラスになるのか、ならないのか」と草川さんがお聞きになるので、私は「両国民が活発に行き来できるようになることは、日韓の友好親善に必ずつながります」と説明すると、一言だけ「わかった」と。

草川さんの判断基準はいつも決まっていて、社会全体にとってプラスになるのかならないのか、ただそれだけでじた。

今でも申し訳ないのですが、私の無理難題な相談は、草川さんの政治家としての評価につながるような内容ではまったくありませんでした。それでも草川さんは日韓のために動き、実現してくれました。本当に感謝しています。

草川さんは、日本人政治家に対する私のイメージを大きく変えました。そして、草川さんの印象は、そのまま公明党の印象と重なっています。政治家は利害関係で動くのだと思っていましたが、草川さんはまったくそうではありませんでした。

そして、草川さんに特徴的だったのは「チーム草川」とでも言うべき周囲のスタッフが一致団結、異体同心で草川さんを支えていたことです。秘書や党職員が草川さんを信頼して動き、

また草川さんも周囲を信頼し、全員で知恵を絞っていることがよくわかりました。それだけに、アドバイスの中身も重層的で深みがありました。また、各省庁の官僚からも、草川さんは信頼できる政治家だという雰囲気がよく伝わってきました。

まさに、公明党が掲げる中道政治の役割を体現するような方でした。草川さんに続く政治家が現れることを、心から望みたいですね。

聞き手: 日韓関係は困難な状況下に置かれていますが、公明党にどのような役割を期待しますか。

玄: 韓国側の政治家の視点から捉えても、与党である公明党が日本の政治の動揺を抑えてくれている安心感はあると思います。公明党には、平和の党として今こそ日韓友好の道を切り開いてほしいと願っています。確かに、日韓関係は大きく冷え込んでいると言えますが、きっかけさえあれば扉は再び開くと信じています。草川さんも道なき道を切り開く信念の政治家でした。公明党も同じでしょう。

世界をみても、日本ほど政治が安定している民主主義国家は少ないと思います。日韓両国が手を携えて、東アジアの安定に貢献してくれることを心から望んでいます。

【「公明」2021年4月号記事リード文】言論NPOと韓国の東アジア研究院(EAI)が2020年10月に発表した第7回日韓共同世論調査によると、韓国国民の71.6%が日本の印象は「良くない」と答えた。日本国民の韓国に対する印象も悪化した。外交樹立から56年、日韓関係はかつてなく両国関係は悪いと評されるも、在日韓国人二世として初めて韓国上場企業の副社長を務めた玄東實氏には「日韓はむしろ真の友好関係を築ける時代に向かっている」と語る。真意を尋ねた。

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