郷愁 nostalgia

萩原朔太郎が蕪村(1716-1784)を再評価した「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。前回読んだのは高三のときだったろう。もう50年以上前のことだ。朔太郎は序文で次のように述べている。

…著者は昔から蕪村を好み蕪村の句を愛誦あいしょうしていた。しかるに従来流布るふしている蕪村論は全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯しゅこうさせるに足るものがない。よってみずから筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思う…蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。

著者のいう「蕪村俳句の本質」こそ<郷愁の詩人>なのである。それはとりもなおさず詩人朔太郎(1886-1942)の本質であろう。

高三の夏休み前に朔太郎全集(新潮社版)を購入し、夏休みに入るや母には受験勉強だと言って、背表紙が革製の全集のうち二冊と数十冊の文庫本を持ち、鈍行の夜汽車を乗り継いで岡山県の中国山系にある鉱山町に向かった。そこに単身赴任していた父の家に下宿し、夏休みのほとんどを好きな本の世界に没頭した。蕪村に関心を持ったのは朔太郎の影響だったろう。

一浪して大学に入ったものの、学生でいることに意義を見出せないまま不登校となった。70年前後から在日や隣国に関心を寄せる。朝鮮語を学ぼうと思ったが、気に入った学校を見つけられなかった。当時、韓国語という名称は使われておらず、どこも政治的な傾向を帯びていたように思う。いい加減な僕は、文革の影響もあって内山書店の奥で中国語を学ぶことにした。朝鮮語以上に政治的な選択をしたわけだ。案の定、3ヵ月ほどでやめてしまった。

週刊朝日(72.4.21)に김지하キムジハの「蜚語ひご」が掲載され、むさぼるように読んだ記憶がある。翻訳で読んでも行間にみなぎる力に圧倒され、韓国の学生運動に日本のそれにない社会性を感じた。当時日本橋にあった三中堂で原書を購入したが、歯が立たなかった。延世大学語学堂の英語で書かれたテキストを入手し、独学で勉強した。大学書林の「朝鮮語の基礎」も通読した。発音はKBSと平壌ピョンヤン放送を聴いて覚えた。

73年に韓国の航空会社の東京支店に入社したが、日本人で韓国語ができるのは僕だけだったと思う。出社した日に上司に呼ばれ、北のなまりを指摘され狼狽ろうばいした。当時はスパイといわれるに等しかったからだ。金大中キムデジュン事件(73年)や文世光ムンセグァン事件(74年)が継起けいきし、日本における韓国イメージは最悪だった時期である。なぜ、あの時期に韓国に引かれたのだろう。振り返ってもよくわからないのだ。

出身地や学歴、出自や階層、所属団体などにもとづいて差別する社会に対する反発があったことは間違いないが、なぜそれが隣国に向かったのか定かではない。幼少期を過ごした鉱山町への郷愁だろうか。東北地方の水沢で過ごした2年間に対する郷愁だろうか。アイデンティティの喪失感そうしつかんにともなうあせりから在日に親近感を覚えたのだろうか。

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