「無宗教」という宗教性

川村元気氏(1979-)の『神曲』(新潮社 2021年11月)に関するインタビュー記事を読んだ。映画監督であり脚本作家であり小説家である同氏が宗教をテーマに父親・母親・娘という三者の相異なる視点から描いた作品のようだ。

この家族には、不慮の死というには余りに悲惨な死に方をした息子がいた。父親は息子がほかの小学生とともに殺された事件の現場にいたが、何もできなかった。そのことをいつまでも妻と娘に責められるのだろう。

記事を読んで、現代日本社会の様相を鋭く分析していると思った。著者は、父親から徹底した映画教育を受け、母親からキリスト教という信仰の影響を強く受けているようだ。幼いころから聖書を繰り返し読み、その物語が著者の血肉になっているとも分析している。よく自分自身を省察していると思う。

この作品を読んでみようか、と思うのは、僕が日本社会を「無宗教性」が支配する社会として捉えるからで、その点で著者の見方と共通するところがあると考えている。Kポップのもつ世界性の基盤にキリスト教があるのではないかという著者の考察も興味深い。

One thought on “「無宗教」という宗教性”

  1. 僕の考える無宗教とは何も信じない、何も信じない、信じられない状態をいうのではない。生きている以上、人は何かを信じているのではないか。無意識であれ何かを信じていなければ生きていることさえできないであろう。何も信じないという人でも、無意識のうちに何かを信じていると考える。その何かが日常生活を可能にすると思うからだ。
     第1篇を読んだ限り、著者は疑心暗鬼の状態について宗教を否定するものと捉えているようだ。宗教否定と呼ぶことができるかもしれない。このように考えると、僕の場合は、無宗教とはいっても、宗教を肯定していることになるだろう。第2篇では永遠という名の超越的な存在が描かれる。キリスト教的な神のようである。

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