玄東實さんが語る(1) 日韓のあいだ

玄東實(ヒョンドンシル) アシアナ航空元副社長に聞く【「公明」2021年4月号掲載記事より】

  • 信頼関係を深めて開く日韓友好の扉
  • “知日知韓”で互いの違いと良さを理解し、3000万人の交流人口めざす

言論NPOと韓国の東アジア研究院(EAI)が2020年10月に発表した第7回日韓共同世論調査によると、韓国国民の71.6%が日本の印象は「良くない」と答えた。日本国民の韓国に対する印象も悪化した。外交樹立から56年、日韓関係はかつてなく両国関係は悪いと評されるも、在日韓国人二世として初めて韓国上場企業の副社長を務めた玄東實氏には「日韓はむしろ真の友好関係を築ける時代に向かっている」と語る。真意を尋ねた。

本名を名乗り自分らしく生きる

–: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。

玄: 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。

–: 東京生まれと伺いました。

玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。

在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。

もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。

最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。

修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。

そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。

–: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。

玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。

事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。

大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。

–: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。

玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。

名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三(くさかわしょうぞう)*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事

コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。

“外国”になった韓国

–: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。

玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。

背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。

国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。

その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。

韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。

ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。

–: 金大中(キムデジュン)元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。

玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。

元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。

私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。

特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。

元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。

玄東實さんが語る(2)へつづく

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