晩年、自らを「画狂老人」と呼んだ葛飾北斎(1760-1849)に関する文章を引用します。70歳になって、北斎のすごさが少し理解できるような気がします。これまで構図の奇抜さや彼の奇行ぶりをめでるだけでしたが、今それらを支える鬼気迫るものを感じるのです。画狂老人の辞世の句は、芭蕉(1644-94)の<旅に病で夢は枯野をかけ廻る>を思い出させます。[以下引用]
死の直前、北斎は「天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」と言ったといわれます。辞世の句は「ひと魂でゆく気散じや夏の原」。絵師の道を追求し続けた北斎が、死んだ後は人魂となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこうと詠んでいます。[すみだ北斎美術館サイトより]
『富嶽百景初編』国立国会図書館デジタルコレクション
跋文: 「浮世絵に聞く」より(ルビ編集)
己六歳より物の形状を写すの癖ありて半百の此より数々画図を顯すといへども七十年前描くところは実に取るに足ものなし七十三歳にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟り得たり故に八十歳にしては益々進み九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るが如くならん願わくは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし [画狂老人卍述]
序文: 「浮世絵に聞く」より(ルビ等編集)
契冲(1640-1701)か富士百首は突兀として顯れ東潮(1806-1855)か不二百句は綵雲にかくれて見えす今新に百嶽を図するは前北齋翁也此山や獨立して衆峰の巓を出つ翁の畫も又獨立して其名高き事一千五百丈に過なむ画帖諸國にわたり懐藏する者最多し豈十五州の壯観而巳ならむや不二の十名を秘藏抄に載たり先生屢名を改む數へなは十名にも滿へしそれかれ因あれはにや此岳を愛ること年あり近く田子の浦に見あけ三保か崎に望は隈なき月盛なる花のこゝちして風情薄とて歟遠く富士見原に杖をひき汐見坂に駕をとゝめ柳の絲になたれを透し稲葉の戰きに高根を仰き逆浪巖を碎くの大洋白雲谷を埋る羊膓嶮阻に上り危に下り真景を寫されたれは翁の精神此巻に止まり端山しけ山世にしけき畫本の峯巓を突兀と出む事阿闍梨(契沖)の百首に劣らめやと [天保甲午(1835年)綠秀 柳亭種彦敬白 薫齋盛義書]
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