1971-2030

時期自分史 1971-2030
1971-73年信山社(神保町)に勤務; Reclam Verlag(ドイツ出版社)の書籍輸入業務・在庫管理担当; 朝鮮高校の卒業生(少年の父が採用に関与)から約2ヵ月朝鮮語を習う[<韓国語>という言葉は当時一般的でない]
1973-77年大韓航空東京支店(丸ノ内)の日本地域本部に勤務、初め2ヵ月ほど毎朝1時間前に出勤(上司から平壌放送なまりの抑揚を指摘され韓国語の発音矯正のため); 73年12月서울・済州島に出張、年に1度は서울に行った; 75年冬に三峰口から雲取山(山荘泊)に登山、水根に下り無三庵むぞうあんにて篠田先生ご夫妻と出会う
1977-80年国際開発(麹町、フィリピン・スペインほか外国不定期航空会社の総代理店)に勤務; 79年10月に結婚; 日米会話学院(四ツ谷)通訳コース基礎科に4ヵ月在籍; 77-96年のあいだ韓国関連の仕事から遠ざかった
1980-83年サイマル・インターナショナル国際会議部(溜池)に勤務; 81年夏に離婚; 82年の歴史教科書問題に際し韓国の中学校「国史」翻訳グループを結成し完訳; 「ミンカブァン自伝」の翻訳に着手; 83年に退職し近所の中高生に英語を教える; 知人の事務所(浅草橋)でバイト; 韓国文化院発行「韓国文化」特集の翻訳(無報酬)
1984-93年ジャパンエコー社に勤務、Tsukuba Expo ’85(海外プレスセンターの運営)/Tokyo summit ’86/’93 プレス資料の編集; 85年に再婚; NHK Radio Japan 韓国語放送モニター(86-87); 外務省に出向、在トロント日本総領事館広報センターに配属(87-89); Osaka Expo ’90 に出向(89-90); 放送大学教養学部(85-93 卒論: 自治体広報資料の多言語化)
1993-96年US-Japan Foundation(米国ニューヨーク州ニューヨーク市に本部を置く民間財団)東京事務所に勤務、日米間の政策研究・教育交流プログラムほか支援業務; 青山学院大学大学院国際政治学修士課程(93-95 修論: 19世紀後半の国際化論議と内地雑居論)
1996-2010年国際文化フォーラムに勤務; 日本の高等学校における韓国朝鮮語教育調査(99 韓国語併記)の結果をふまえ韓国文化院の支援を得て教員ネットワーク組織を結成(99)天理大学・神田外語大学に働きかけ韓国語・朝鮮語の教員免許取得のための講習を開講(第1期:01-03 第2期:06-08)、第1期講習をふまえ日本の大学等における韓国朝鮮語教育の実態調査を実施(02-05 韓国語版合冊、최정순・韓国大使館教育部ほか支援); 日本の高等学校の日本史教科書の韓国語訳校閲(05-06);『메구미[めぐみ]』韓国語訳校閲(07-08); クムホ・アシアナ杯高校生大会の運営(08-20 アシアナ航空・韓国文化院主催)、ハンガンネット[韓国語講師・教室ネットワーク]のサイト運営(09-20); 上海人から約2ヵ月上海語を習う(09); 2010年3月に定年退職
2010-20年アスク(10-11 韓国語関連書籍の編集)、ニッポンドットコム財団(11-12 翻訳チェック校閲)、アシアナ・スタッフ・サービス(13-15 アカデミー・サイト運営)に勤務; 篠田先生ご夫妻逝く(14);『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 大韓帝国最後の皇太子・英親王の許婚者』(14 서울 知識工作所 校閲・写真提供); DEKIRU(15-18 資金移動業)に勤務; 日本技術貿易(18-19 特許翻訳文のチェック校閲)に勤務; 在大阪韓国総領事오태규関西滞在記(18-21 在大阪韓国総領事오태규の投稿サイト制作運営); World Family Inc (19- )に勤務; 伊藤塾の行政書士試験講座を受講(19-20); 少年の父逝く(19); 「いつか名もないうをになる」執筆(20)
2021-30年辰巳法律研究所の行政書士試験講座を受講(21); 大坪洋一の全作品が問う「韓国併合とは何だったのか」のサイト運営(21); 行政書士試験に合格(22);
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すべての制作運営サイトを削除(29); 死去(30)

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