memo: ネコの菩薩とデクノボウ

無宗教派の総本山のひとつ、副都心にある教会ビル地階に彼女と二人でゆっくり降りていった。上方(じょうほう)湾曲(わんきょく)した鉄骨とガラスで造られた巨大なドーム屋根があり、鉄骨で仕切られた分厚いガラス越しにビル群と空が見える。その下の大広場は荘厳(そうごん)な空気をたたえ、無宗教派らしい建築様式を誇っている。人々はそこにいるだけで敬虔けいけんな気持ちになるのだった。

広々とした空間を囲む壁の一辺にコーヒーショップの丸テーブルが十(たく)ほど並んでいる。そのなかほどに陣取(じんど)って三時間あまり、イヌ族であるはずの僕は延々(えんえん)とネコ族にまつわる話を()き、相づちを打った。気むずかし屋の僕がよく笑い、彼女に負けじと饒舌(じょうぜつ)になった。三時間というのは腕時計の針がそう示していただけで、すっかり時間の経過(けいか)を忘れ、ほんの瞬間としか感じられなかった。彼女はネコ族らしい有能な話し手であり聞き手であった。多才な通訳者でもあるに違いない。

1970年代初めに서울の地下鉄構内で出会った老人について彼女に尋ねるべきだった。プラットホームと改札口レベルをつなぐ長いエスカレータが四本左右に並んでいた。中央の二本は下りで両端の二本が上り用だった。向かって右端の上りに乗っていた僕が見上げると、下りレーンのはるか上方から一人の老人が両手を広げ、まるで預言者が下界に降りながら人々に語りかけるように熱っぽく何かを訴えていた。彼が何を語っていたのか知りたかったのにわからないままなのだ。それを彼女に聞いてみたかった。

1980年代初めにネコ語を解すという小説家がいたが、僕はまったく信用しなかった。でも、きょう会った彼女は違う、ヒト族の言葉だけではなく、本当にネコ語を理解できるようなのだ。ネコなで声など、いとも簡単にゴロゴロあやつる。ネコ族に人知れず関心を抱いていた僕は彼女の話に夢中になり、その術中にはまってしまった。進んでかされたのである。そのせいだろう、何を話したのか、ほとんど覚えていない。

副都心駅まで一緒に歩いて別れたが、夜行性の生活者は十年以上都心に来たことがなく、その変貌(へんぼう)ぶりに驚いていた。前の晩もネコの(れい)に導かれるままに郊外の真っ暗な道路を運転していくと、巨大に明るいところに着き、その路上にネコの死体が横たわっていたという。タヌキの警官が検分(けんぶん)をしていたそうだ。昨夜も、僕と別れたあと皮膚ガンで顔が異様にふくらんだネコの看病(かんびょう)に行くのだと話していた。いまは自宅と彼女の勤める工場の構内に棲息(せいそく)する二十匹以上のネコの面倒(めんどう)をみているそうだ。

彼女は長いあいだ複数の国のさまざまな言葉を話す人たちと一緒に()らしていた。ある人は台湾(たいわん)語を話し、またある人は韓国語を話した。彼らのあいだの頼りない共通語は独特の日英語ともいうべきもので、ある時は日本語に聞こえ別の時には英語に聞こえた。大事なことは、彼らのあいだにそういう共通語が(つく)られたということだ。

日本島の経済状況に応じて共同生活者の人数は増減を繰り返したが、ある時期から減り始め、もとに戻ることはなかった。(にぎ)やかだった昔をなつかしみ、こい()がれたが、そこに帰る(すべ)はなかった。彼女は孤独感にさいなまれ人知れず()んでいた。医者にきいても確たる診断はない。そのころからだった、彼女は路上をうろつくネコたちに引かれるようになった。

ここまで彼女という三人称単数形を使って書いたが、それはある特定の個人をさすのではなく、ネコ族を献身的(けんしんてき)にサポートする複数の人たちの象徴(しょうちょう)であり、現代人そのものでもある。いつか、彼女たちとネコ族との関係について小説を書きたいと思う。それは童話の形式になるかもしれない。彼女たちが先に書くかもしれない。ちなみに、デクノボウというのは宮澤賢治の雨ニモマケズに登場する菩薩の修行者の意味である。

「いつか名もない魚になる」の下書き段階で、都会で野生化したネコ族が自販機(じはんき)を襲撃する事件が増え、2030年の日本島では自販機が禽獣(きんじゅう)を入れる(おり)のような(てつ)格子(ごうし)(おお)われているだろうと書いた。彼女の話を聴いている限り、ネコたちが野生化して獰猛(どうもう)なネコ族になることは想像しにくいのだが、その浸透ぶりはいつか彼らが人々の脅威(きょうい)になりかねないという不安を抱かせる。

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