年齢という虚数

長年、日本の教育制度のなかで育(はぐく)まれ、テレビやスマホを通じて選別された情報に浸(つ)かるなか、僕たちは多様な形を持つ虚構のなかでくらしている。虚構を構成する最大要素の一つである数字を虚数(imaginary number)と呼ぶことにしたい。

不偏不党という虚構のメディアが拠(よ)って立つのがまさに数字であり、それはいくら客観的に見えても常に何らかの処理を受け操作された虚数である。最近では日々コロナ禍にまつわる感染者数やワクチン接種に関する虚数を報じ、人々がそれに一喜一憂しているように見える。僕もその一人である。

さまざまな虚数が氾濫しているが、その最たるものが年齢であろう。きょう誕生日を迎え71歳になった機会にあらためて年齢について考える。年齢とともに余計な制約がふえてくる。腰痛、痛風、しびれなど、経年変化による傷(いた)みもふえた。「断捨離」だ「エンディング」だと周辺もかまびすしい。

これらを操作しているのが年齢という指標で、人々と社会を操作する虚数である。それに対抗すべく、試みに70歳≡0歳という合同数を導入したい。還暦のように誰にも適用できるものではなく、その意思と最低限の体力がなければ成り立たない。平均余命に少し加え、あと20年生きるとして、これからの成長を楽しみたいと思う。

御岳山から大岳山に向かう急峻にて

One thought on “年齢という虚数”

  1. 年齢という虚数に対し体力という実数がある。ここ3 年毎年蝋梅が咲くころ、娘に誘われて御岳山に登っているが、年ごとに自分の体力が落ちているのを感じる。これを体力という実数と呼ぶことにしたい。

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