「大菩薩峠」を読み直す(3)

「勿来の関の巻」はやや中だるみの感があったが、この長編小説に取りかれのがれることができない。読み続けていると、興味深い内容があった。16世紀末の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。真偽のほどは不明だが、こういう内容に興味を持つ僕が少し変なのかもしれない。以下、青空文庫「大菩薩峠 白雲の巻」より引用する。

白雲の巻 五
 (前略)
「ああ、それそれ、もう一つ仙台家に――特に天下に全くかけ替えのない王羲之
おうぎし
があるそうですが、御存じですか、王羲之の孝経――」
「有ります、有ります」
 玉蕉女史が言下に答えたので、白雲がまた乗気になり、
「それは拝見できないものでしょうかなあ」
「それはできません」
 女史はキッパリ答えて、
「あればっかりは、わたくしどもも、話に承っておりまするだけで、どう伝手
つて
を求めても拝見は叶いません、いや、わたくしどもばかりではございません、諸侯方の御所望でも、おそらくは江戸の将軍家からの御達しでも、門外へ出すことは覚束なかろうと存じます」
「ははあ、果して王羲之の真筆ならば、さもありそうなことですが、王羲之の真筆はおろか、拓本でさえ、初版のものは支那にも無いと聞いています――そういう貴重の品が、どうして伊達家の手に落ちたか、その来歴だけでも知りたい」
という白雲の希望に対しては、玉蕉女史が、次の如く明瞭に語って聞かせてくれました。
白雲の巻 六
 豊太閤朝鮮征伐の時、仙台の伊達政宗も
おく

せながら出征した。朝鮮国王の城が開かれた時、城内の金銀財宝には目をつける人はあったけれども、書画骨董
こっとう
に目のとどく士卒というのは極めて稀れであった。
 そのうちに、肥後の熊本の細川の藩士で甲というのがしきりに、王城内で一つの書き物を見ている――兵馬倥偬
へいばこうそう

かん
に、ともかく墨のついたものに一心に見惚れているくらいだから、この甲士の眼には、多少翰墨
かんぼく
の修養があったものに相違ない。
「これこそ、わが主人三斎公にお目にかけなければならぬ」
 それを、
かた
えから、さいぜんよりじっとのぞいていたのが、伊達家の乙士であった。
 この乙士がまた、偶然にも同好の趣味を解し得ていたと見え――細川の甲士が一心をとられているそれを、のぞいて見ると、ああ見事――熟視すると、それがすなわち王羲之筆の孝経である。
 乙士の眼は燃えた。わが主人政宗公へ、この上もない土産――分捕って持ちかえらないまでも、一眼お目にかけたら、そのおよろこびはと、自分の趣味から、主人思いは細川の甲士と同様で、それに功名熱が
あお
りかけたが如何
いかん
せん――先取権はもう、その細川の甲士の上にある。
 さりとて、どうも、このままでは引けない、ともかくもぶっつかってみようと、伊達の乙士は細川の甲士に向い、なにげなく、
「さても見事な筆蹟でござるが、拙者もこの道は横好き、なんとこの一巻を、拙者の好事
こうず
にめでてお譲り下さるまいか」
 こう言って持ちかけてみたが、甲士は頭を縦に振らなかった。
「敵将の一番首はお譲り申そうとも、この一巻は御所望に応ずるわけにはいかぬ」
「それは近ごろ残念千万ながら、是非に及ばぬこと」
 礼儀から言っても、名分から言っても、先方が譲らないと言う以上、こちらは、どうしても指をくわえて引込まなければならない。ぜひなく陣へ立戻ったが、残念で堪らないから、改めてその一条を主人政宗に向って物語った。
「それは残念無念――そのほうが我に見せたいと思うより以上、おれはその品を見たい、見ずには置けぬ」
 そこで独眼竜は馬を
って、直ちに細川三斎の陣を訪れた。
「突然の推参ながら、たって所望の儀は、さいぜん貴公の家士が稀代の名筆を分捕られたそうな、それを一目拝見が致したい」
容易
たやす
き儀でござる」
 三斎もそれを
こば
まん由はなく、今し甲士が分捕って
もた
らしたばかりの一巻をとって、政宗の手に置いた。
 政宗それを取り上げて見ると、唐太宗親筆の序――王右軍の筆蹟――独眼竜の一つの目が、その全巻の中へ燃え落ちるばかりになっているのを見て、急に驚き出したのは細川三斎であった。
 この勢いでは、この男に持って行かれてしまうかも知れない――所望と打出された以上は、相手が相手だけに、どうしても只では済まされない、ここは先手を打つよりほかはないと、老巧なる細川三斎は、政宗と王羲之
おうぎし
とをすっかり取組まして置いて、穏かに
くさび
を打込んだ、
「伊達公の御来駕
ごらいが
を幸い、密談にわたり候えども、かねがねの所存もござること故、折入って御相談を願いたい儀は――」
と、改まって物々しく出た。王羲之に打ちこみながら、政宗は、
「何事かは存ぜねども、御心置なく申し聞けられたい」
「余の儀でもござらぬが、太閤殿下の威勢によりて天下は一統の姿とはなりつるが、これで安定とは、我人共に得心のなり申さぬ時勢、太閤百年の後、天下再び麻の如く乱るるや否や――
しか
る上は、君は東北にあって本土の頭を抑え、不肖は九州にあってその脚を抑え、かくして、南北相俟
あいま
って国家のために尽しなば、そのしあわせ、我々の上のみならずと存じ申す。よって、今日貴公の来臨を機会とし、伊達公と細川家――末永く親類の名乗りを致したいものでござるが――」
 練達堪能
れんたつたんのう
の細川三斎から、こう言われて、豪気濶達の伊達政宗が、その返答を躊躇するようなことはなかった。
「それは、深慮大計の御一言、不肖ながら我等とても同様の所存、然らば今日より、細川家と伊達家は、末永く親類づき合いをすることに致そう」
「早速の御承諾かたじけなし――然らば、その結納
ゆいのう
の記念として」
 細川三斎は、伊達政宗の手から王羲之の孝経を受取って――その場で二つに裂いた。
「この上半を君に進呈し、下半は忠興
ただおき
頂戴し、これを以て心を一にして、両家親類和睦の記念とつかまつる」
 そこで、この一巻が、伊達家と細川家と、両家にわかれての家宝となった。
 それより物変り星うつり、伊達家は政宗より五代、名君と聞えた吉村の時代になり、細川家もまた当然越中守宗孝の時代となったのである。
「ところが、どちらがどう伏線になっていることでございますか、この二つに分れた王羲之が、それとは全く異なった因縁と出来事とによって、一つになる機会を得ました、それで話が伊勢の国へ飛ぶのでございます」
白雲の巻 七
 玉蕉女史は、事実の非常に奇なる物語を、やさしい物言いで、たくみに語り聞かせるものですから、白雲も膝の進むのを覚えませんでした。
 朝鮮陣の物語から、話題一転して、ここは伊勢の国、藤堂家の城下の舞台となる。玉蕉女史は、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)
びび
として次の如く物語を加えました、
「御承知の通り、伊勢の国は、大神宮参拝の諸国人の群がる土地でございます、それだけに土地に、他国人を相手に悪い風儀も多少ございまして、藤堂家の家中のさむらいにも、折々、通りがかりの旅人に難題を吹きかけ、喧嘩を売り、相手を困らせて置いて一方からなれ合いの仲裁役を出し、そうしてどうやら事を納めたようにして酒手
さかて
をせびる――というような風の悪い武家が無いではなかったそうでございますが、いずれも遠国の旅人ゆえ、相手が怖がって、無理を通したというようなわけでございましたが、藤堂家からはお隣りの、大垣藩の戸田家の方々がそれを聞いて苦々しいことに思いました。これはひとつ遠国旅人の迷惑のために、最寄りのわが藩中に於て目附役を買って出て、藤堂の悪武士の目に物見せて置いてやるべき義務がある、こんなように思いまして、戸田家の剣道指南役のなにがしという方が、わざと入念の田舎武士風によそおって、伊勢詣りを致すと、案の如く、藤堂家の悪ざむらいにひっかかりましたものですから、御参なれとばかり、それを取って抑え、さんざんにこらしめ、固く今後をいましめて許し帰したとのことでございますが、それだけで済めばそれでよろしいのでございますが……」
 右のこらしめの武士は、実は戸田家の指南役が姿を変えて、いたずらに来たのだという
うわさ
が、藤堂様の耳に入ったものですから、藤堂様もいい心持はなさらず、それに家中の者が戸田家の仕打ちを憎んで、その儀ならば、仕返しとして、戸田家に向って、うんと恥をかかせてやれ――という一念が昂じて、ついに戸田の殿様を暗殺してやろうという血気にはやるのが、とうとう実行に現われてしまいました。
 それは藤堂家の家中で、板倉修理というさむらいが、江戸の西の丸のお廊下に身を忍ばせて、戸田の殿様のおかえりを待受けていて、不意に飛びかかって斬りつけたのですが――
 間違いのある時は、いよいよ間違いのあるもので――板倉修理が戸田の殿様と思って斬りかけた先方は、思いきや前申し上げた肥後の熊本の細川越中守宗孝侯でございました。
 細川様こそ、何とも申上げようのない御災難で――実は、その時、板倉修理の一刀で御落命になったそうでございますが、そこへ通り合わせたのが、これも前申し上げた通り、名君の聞え高い仙台の吉村侯でございました。
 殿中、上を下への騒動の中に、通り合わせた伊達吉村侯は、細川侯を介抱し、
「細川越中守、ただいま卒中にて倒る、伊達陸奥守お預り申す」
と言って、血の垂れたところへは、全部小判を敷きつめて、御自分のお乗物に、越中守の御死体とお相乗りになって下城なされました。
 桜田御門の検閲は厳しいそうでございますが、その時、吉村侯のお乗物は、東照宮御由緒附きの胴白
どうじろ
のお乗物――それに太閤様以来、伊達家だけにお許しの活火縄
いきひなわ
で、粛々と行列を練ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、
かゆ
一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
 細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明如何
いかん
ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
 これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
 御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業
ひごう
の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営
りゅうえい
の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家五十五万石が救われ、王羲之の孝経は完全な一巻となって、伊達家に秘蔵される運命になったのだそうでございます。
 右の来歴を逐一
ちくいち
聞き終ってみると、白雲はあきらめたようなものの、せめて、その※(「(墓-土)/手」、第3水準1-84-88)
もほん
でも、うつしでも、片鱗でも見たいものだと
しき
りに嘆声を発しました。
 玉蕉女史も、来歴のことだけはかなりくわしく知っているが、その片鱗をもうかがっていないことは白雲と同じ、そうして、しきりと渇望の思いにかられることも同じであります。
 けれども、結局、いかに執心しても、こればかりは我々の歯が立たないということに一致し、
いたず
らに王羲之の書――その他の書道の余談に
ふけ
ることによって、夜もいたく更けたようです。
 いつまでたっても話の興はつきないが、この辺で御辞退と白雲も気を
かせると、廊下伝いの立派な客間へ白雲を案内させて、美しい夜具の中に、心置なき
ねぐら
を与えくれるもてなしぶりに、白雲もなんだか夢の国へでも来たような気持になって、うっとりと、その美しい夜具の中に身を置いてみると――王羲之を中心としての話に、あんまり身が入り過ぎて、他の多くのかんじんなことを、すっかり忘れ去ってしまっていたことに、我ながら苦笑いをしました。
 そのうちの最初として、今晩たずねて来る口約束になっていた、あの名取川の蛇籠作
じゃかごづく
りの変な老爺
おやじ
――こっちは話に夢中で忘れてしまってはいたが、先方は、自分から念を押して今夜はかならずやって来るとあれほど言っていたのにまだ訪ねて来た様子はなし――責めは先方にあるのだ、と独文句
ひとりもんく
を言ってみたりしました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4510_14291.html

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