Inzwischen treibe ich noch…

Inzwischen treibe ich noch auf ungewissen Meeren; der zufall schmeichelt mir, der glattzngige; vorwrts und rckwrts schaue ich-, noch schaue ich kein Ende. (In the meantime I am still drifting on uncertain seas; chance flatters me, the smooth one; forwards and backwards I look, still I see no end. [translated by deepl.com])

ドイツ語は少し勉強しただけだが、上に引用した「ツァラトゥストラかく語りき」の一節はなぜか暗記している。何かの本の冒頭に載っていたことだけ記憶していたが、数日前それを角川書店版「合本三太郎の日記第三」に再発見し、ひそかに喜んでいる。60年代末に読んだと思う。

50年余り経て読むと、かくも理屈っぽく冗長な文章をよく読んだものだと、昔の自分に関心してしまう。この本を読んだ当時の僕は、キリスト教にもとづく哲学青年の思索のなかに漂流していたのだ。70歳を過ぎて読み直し、同じ思考の流れに沿えないことを自覚しながらも、かつての自分がその本から滋養を得ていたことを考え、感謝しないわけにはいかない。

一方で、「ツァラトゥストラ」や「三太郎の日記」の内容は忘れ、読んだ記憶しかないということは、僕はこういう思索に沿って漂流しただけで、何も身につかなかったとも思う。いまだに僕は inzwischen treibe ich noch の境を脱していないのかもしれない。

(数日後)いや、そう単純ではない。50年余りを経て「三太郎の日記」全編を読み進めるうちに、僕は著者ならぬ三太郎に感化されて、その執拗ともいえる、一歩ずつ踏みしめながら思索を進めるやり方にかなり馴れ、自分が単なる読者であることを超え、ある種の思考訓練を受けているような感官を覚えるようになった。

と同時に、50年余り前と現在の大きな違いを自覚しないわけにはいかない。それは、自分には表現し発表する媒体があるということだ。たとい読者は限られていても、自分が体験し考えたことを記録として残すことができる。こんなに恵まれた環境はないではないか。

One thought on “Inzwischen treibe ich noch…”

  1. 50年余りを経て「三太郎の日記」全編を読み進めるうちに、僕は著者ならぬ三太郎に感化されて、その執拗ともいえる歩一歩を踏みしめながら思索を進めるやり方にかなり馴れ、自分が単なる読者であることを超え、ある種の思考訓練を受けているような感官を覚えるようになった。と同時に、これが50年余り前と現在の大きな違いを自覚っしないわけにはいかない。それは、自分には表現し発表する媒体があるということだ。たとい読者は限られていても、自分が体験し考えたことを記録として残すことができる。こんなに恵まれた環境はないではないか。

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