先生に初めて会ったのは1998年8月に東京で開催された韓国朝鮮語の高校教師研修会のときだったろう。先生が勤めていた菊池農業高校を訪ねたことがある。同校は韓国全域にある農業高校との交流を実施しており、先生はその推進役を担っていた。

先生は6年あまり、熊本近代文学館で研究しながら「文学として」韓国や東アジア諸国とつながることをテーマに人脈を広げていった。2008年に始まったクムホアシアナ杯高校生大会の日本語エッセイ部門は、先生の人脈なしには成り立たなかった。

先生は人の話を真摯(しんし)によく聞く。僕の話もよく聞いてくれる。そんな先生の人となりを彷彿(ほうふつ)とさせる一人の中学生とのエピソードが天草高校のサイトに載っているという。それを教えてくれたのは、同じくクムホアシアナ杯の日本語エッセイ部門立ち上げに深く関わった中大杉並高校の菊地先生だった。二人とも国語の先生だ。

(ある日の朝、一人の中学生が先生の官舎の前で自転車のギアにゴムひもをからませて途方(とほう)にくれていた。先生ほか三人が彼女を親身になって助けたが、しばらく経った雨の降る晩、その中学生が母親とともに官舎を訪ね(何度か訪ねた末にようやく)、お礼の手紙を届けてくれた。

このあいだはありがとうございました。
お仕事の時間ギリギリまでつきあわせてしまい、このあとどのようにすればいいかまで教えてくださり、本当に感謝しています。そして、自転車はすっかりなおり、
いつもどおりに乗ることができています。これからもお体にお気をつけてお過ごし
ください。

この手紙を読んだ先生は、海岸沿いに歩いていた中学生の自分を思い出す。

……私は、天草(あまくさ)町高浜(たかはま)の出身です。中学に入学したばかりの時、小学校からの友人が苓北(れいほく)町の医師会病院に入院したので、バスを乗り継(つ)いでお見舞(みま)いに行ったことがあります。
 しかし、話に夢中になって、母と約束した午後四時過ぎのバスに乗り遅れてしまいました。バスの時刻表を見ると、次の最終バスが出るのは午後六時過ぎ。二時間ほどあります。当時はスマホもなく、親に連絡する手段もないので、『母が心配するだろうな』と思うと、いつの間にか海岸沿いの道を歩き始めていました。
 やがて辺りを夕日が赤く染め、そして、日が落ち、足元も見えないくらいの闇がやってきました。怖くて歩を進めるのだけれど、行っても行っても、灯(あか)り一つ見えてきません。波の音が静かに響いているだけです。
 やっと、道のはるか遠くに灯りが見え始め、泣きながら必死に走ってたどり着いたのは、下田温泉の停留所でした。ベンチにすわって泣き声を必死にこらえながら泣いていると
 『どうして、もっと早く帰らなかった』と自分を責(せ)める声が響いてきます。
 しかし、それに答えることができないので、また、涙を流すのです。
 あの時、あのバス停に人がいたら、たぶん、変な子供だと思われたかもしれませんが、抱き着いて泣いていたような気がします。
 しばらくすると、丸い灯(あか)りを灯(とも)したバスがやってきて、無事高浜まで帰ることができました。
 案の定(あんのじょう)、母にはこっぴどく叱(しか)られました。しかし、母のもとに帰ってくることができたというのがとても嬉(うれ)しかったのを覚えています。
 だから、というわけではないのですが、困っている人を見ると、自分ができる、できない、ということを飛び抜かして、声を掛(か)けてしまうのです。
 誰かが横にいてくれるというだけで心が安らぐ、安心できるということを体験したから。

馬場先生や菊地先生と会うと、延々と話が続き笑いが絶えない。三人の共通点はいくつかあるが、その最大なものは「多情多恨(たじょうたこん)」であろう。お二人は否定するだろうが…